タージ・マハルとは、愛妻に造られた大きなお墓です。
私は別のブログで何度かタージ・マハルの心に聞くブログを書いていて、それとほぼ同時期に大嶋先生のブログでもタージ・マハルのお話が出たというミラクルが起こったことがあります。
日本のお墓は型が同じだけれど、洋型のお墓は自分の好きなデザインにしたり、芝生などに建てたりとオシャレらしいですね。
(私はお墓に詳しいわけではありませんが)
それで、タージ・マハルもそうですし、日本の古墳にも当てはまることだと思うのですが、お墓が大きければ大きいほど「偉大な人」と解釈できるかと思います。
日本だと、埴輪などが古墳に埋められますね。
私の実家の近所にも鹿野入鹿の前方後円墳があって、小学生の頃はよく古墳で遊んでました。タケノコが取れたりとか。
だけど、その内に古墳から勾玉や土器などが出てきて、立ち入り禁止になりましたね~。
昨年に私の祖母が亡くなったのですが、誰かが亡くなった時に、棺に一緒にその人の思い出の品を入れてあげます。
そうすることで、天国に行っても幸せに過ごせるようにという意味があるのかもしれませんね。
こうやって、「死」というものは私たちにさまざまなイメージをもたらし、昨日私が考えていたことは「昔は死ぬのが怖かったなあ」ということです。
なぜ、あんなにも怖がっていたのか分かりませんが、「死」というとどうしても苦痛を伴うものだと連想します。
生まれる時は痛くなかったのに(私は出産時に呼吸が止まっていますが)、死ぬ時は痛いんだ、みたいな。
だから、それは誰かと一緒に死んでも痛いのは変わりないし、最後にはひとりぼっちの孤独で痛みに耐えなければ!と思っていたから、死が怖かったのかもしれません。
私は「死の恐怖」というものは誰にでも共通しているものだと思っており、そして、その「死の恐怖」があるから人は苦しんだり悩んだりして恐怖を紛らわしているのかもしれない。
ここらへんは大嶋先生の『それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも?』に詳しく解説がされています。
こんな話をしていたら、ブログ画面がバグで消えてしまった!
下書き保存機能があって助かりました~!
で、この「死の恐怖」というのを回避しようとすればするほど恐怖が増大するという話。
じゃあ、「恐怖に立ち向かえばいいんか!」ということになりますが、それもなんだかちょっと違う。
この本では、「恐怖に浸る」方法が書かれているのです。
そう、逃げずに浸る。
浸ることで自分の内面にきちんと向き合うことができるのかもしれません。
本物のトラウマは、本当に記憶がありません。
これは私の体験したトラウマも記憶がなく、むしろ良い記憶に塗り替えられていたからです。
だから、覚えていないトラウマにいくら向き合おうと思ってもそこに「覚えはない」ので、だから目の前で繰り広げられる光景に安直に脳はくっつけちゃうんですね。
「これこそがトラウマだ!」と。
脳は都合がつくと錯覚するので、「これが真のトラウマじゃ!」とダミーのトラウマを本物のトラウマとして処理しようとするけれど、感情記憶と状況記憶のパズルのピースが合わないから「処理できない!」と、いつまでも記憶のシャッフルが止まりません。
そこで登場するのが“中指ビンゴ”や“心に聞く”です。
これは大嶋先生が提唱されているものの中でも、本当に面白くて気軽にやってもらえます。
中指ビンゴのやり方については『本当の私よ こんにちは』で詳しく解説されていますが、指をぶらぶら~と振って自分の本音を探っていきます。
こうやって自分の意識の外側に自分の本音がある!と気づけた時に、私たちは支配やしがらみのネットワークから解放されるのでしょう。
無理に支配の手を「ほどこう!」と思わなくても、ただ「気づくだけでいい」。
気づいて認めるだけでいい。
これは何度も大嶋先生が仰っていますが本当にその通りで、気づいた時点で認めてるんですよね。
だから、無理に何か行動を起こして「自分を変えよう!」とか「誰かのためになるように生きねば!」と思わなくても、あなたの背後で適切に無意識が働いているわけなのです。
その無意識に自分の背中を委ねた時に、今まで見てきた光景と全く違う無意識の美しい光景を見ることができるのかもしれません。
メタファー:洋型の墓石
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