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上手くいかない恋愛をしている人へ

催眠スクリプト
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目の前を、桜吹雪が舞っていて、私はどうして1人でここにいるんだろう?と、視界に入ってくる淡くおだやかな桜色とは裏腹に、私の中にある感覚が広がっていくのです。

ただただ桜並木の真ん中にぼーっと突っ立って、本当は誰と一緒に来たかったんだろう?と何度も何度も同じことを考えながら、私の脇を通り過ぎていく親子連れの楽しそうな声や、老夫婦のおだやかな会話を耳にしながら、一生懸命ここに立っていようと踏ん張っている。

なぜ、こんなにもあの感情が私の中に渦巻いていて、だけどどうすることも出来なくて、目の前の美しい景色をあの人と一緒に見ることができないことが、私にとってはそんなに大切なことなんだろうかと、そんなことを思うのです。

だから、わざわざ休みの日にこうやって人通りの多い桜の名所に足を運んで、たった1人、にぎやかな声の中で佇んで、何かを噛み締めるように桜並木を目に焼き付けます。

そして、まるで私がここに存在しないかのように、今隣を通り過ぎて行った親子は、互いの顔を見ながら笑い合って、私の前から歩いてくるカップルは、手を繋ぎながら頭を寄せ合ってゆっくりとした歩幅で通り過ぎていきます。

だけど、私はこのまま家に帰ることもできないし、この桜をただ1人で楽しむこともできないから、だからこうやって桜吹雪の中に1人立っているしかできないのです。

すると、堤防の下には川が流れていて、その勢いのある川の流れが桜の花びらを下流へ運んでいくのが見えます。

昨日、雨が降ったわけでもないのに、川は大きな音を立てながら、濁った波を立てて堤防の間を流れていますが、川が濁っているとかは誰も気にしていなくて、この場所はただただ桜の名所なのです。

私の家から一番近いこの堤防は、春になると桜祭をして、夏になると若葉で堤防に涼しい木陰を作ってくれて、冬の夕方にはこの堤防から見る高い空に一番星を見つけることができるので、高校生の頃の私はいつもこの堤防を帰り道にして、今日あった悲しいこともうれしいことも、この景色と一緒にどこかへ溶けて流されていくようでした。

あれから数十年が経って、私の環境は大きく変わったし、私自身も変わったし、大切にしたいものも昔とは違うと思うんだけれど、でも、桜は変わらず好きで、だから春になると1人でも必ず桜を見にこの桜並木を訪れるのです。

そして、いつも桜並木に来るときは1人だったので気づかなかったけれど、なぜ今年は1人がこんなにもあの感情で締め付けられるのか、それは去年までよりも、私の周りにいる花見客の声が大きく聞こえるからかもしれません。

今まで気づかなかったけれど、笑い合って楽しそうに喋っている人々は、まるで私とは違う世界にいる人々に思えて、だから余計に「どうして私の隣にはあの人がいないんだろう」と思ってしまうのでしょう。

だけど、あの人とどうしても一緒に桜並木に来たかったわけではないと自分では思っていて、だからこの感情はきっと、他の私の大事な感情を表しているものだと気づきました。

じゃあ、私はどうして締め付けられるようなあの感情に支配されていて、あの人のことを頻繁に思い出してしまうのだろうと、あの人の顔を思い出そうとするけれど、あの人の優しい口元しか見えないんです。

あの人の優しい声は思い出せるかもしれないけれど、私はそれが欲しいわけではなくて、私は、私はもっと何が欲しいんだろう?と、花見に来た家族や恋人やさまざまな人たちの声を聞きながら考えます。

そう、桜が舞う中で、1人だから美しく見えるものもあるのかもしれないと気づいてしまった時に、私はあの人がいない隣の席から吹いてくる冷たい風を心地良いと感じていたのです。

だから、今の私にはぬくもりは暑くてかなわないし、誰かと一緒に過ごす時間は、芸術を美しいと思う感性を鈍らせてしまうのかもしれないと思うと、ある美術館に行った時のことを思い出して、あの美術館で過ごした静かな空気とひんやりとした冷たい空気が肌を撫でる感覚がなつかしく思えたのです。

白くてつるんとした廊下を歩くと足音が高い天井に響いて、それがまた冷たい空気を震わせるようでとても美しく感じました。

床から天井まで全面ガラス張りの壁は私の憧れの建築で、ガラスの向こうに見える森は涼し気で、将来こんなところに住めたらなあとうっとりします。

1人で廊下を歩くと1人分の足音しか聞こえないことに芸術性を感じて、いつまでもぐるぐると廊下を歩いてガラスの向こうの森を眺めていたいと思うのです。

本当を言うと、私は芸術なんか良く理解できなくて、誰かに合わせて感動したふりをするのではなくて、1人の時にこうやって自分の内側を感じていたいのです。

新鮮な空気を肺にいっぱい吸って、吐いた時に自分の中が空っぽになる感覚を感じたくて、誰もいない空間で大きく深呼吸をしてみます。

自分の肺がふくらんだ感覚を確認してから、冷たい空気を肺に感じると、耳がツーンと静寂の音を敏感に察知して、すると私の頭に雷が落ちたように全身が痺れるのです。

私は、このビビビッとくる刺激のために、静寂を求めているのかもしれないし、ビビビッとくるこの電気は、私の中の淀んだ何かを定期的に動かしてくれているのかもしれません。

ガラスの向こうの森は青々と茂っていて、時折吹く強い風にザザザー…っと一斉に同じ方向に幹がしなるのが見えます。

私はというと、風も吹かない快適な美術館の中からその光景を眺めていて、「外は風が強いなあ」なんて思うけれどピンと来ないのは、ここからは風の音も葉が揺れる音も聞こえないからかもしれません。

ただ真っ白い空間で真っ白い服を着た私は、安全な場所から外の変化を眺めては、その変化を美しく感じます。

変わらず私はここにいるけれど、ガラスの向こうは台風が来て荒れたり、太陽の光がさんさんと降り注いで影もできない真夏日になったり、夜が来て無数の星が見えたりします。

そのどれもが私にとっては「美しくて唯一無二のもの」であるので、嵐の日も雨の日も世界が滅亡しても、同じ場所にイスを持ってきて座って、その光景をまるで映画のワンシーンであるかのようにじっと観察しようとするでしょう。

たった1人の貸し切りの映画館がこの美術館であり、無音で見るその映画は映像の迫力だけで私の中に音を作ります。

昔読んだあの漫画のように、人類が滅亡しても何千年、何万年と時を越えてまた人類に変わる生命が誕生する様子を見守って生きていくんだと、この美術館をおとずれたばかりの私はそんな気が遠くなるような話だと思っていなかったので、ここに1人、イスに座って眺める嵐の森の風景は、その中にいない限りは私には大きな神秘に見えるのです。

巨大な森を揺らす強風も、生い茂った立派な若葉も、空を覆い尽くす分厚い灰色の雲も、天井の高いこの部屋から見るそれらはとても美しい。

そう、とても美しい。

嵐の森をこんなにも美しいと思えるなんて、この美術館に来るまで知らなかったなあと、大きな自然の力を目の当たりにした私の中には、何とも言えないあの感情が私を満たしていくのです。

ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだん軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして、頭がすっきりと目覚めます。

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