PR
スポンサーリンク

支配の内容が自分でピンと来ないのは

ひとりごと
スポンサーリンク

先日のZoom会に参加してくださった皆さま、ありがとうございました!
なかなか日常生活で友人と「心に聞く」や無意識の話をすることがないので、とても新鮮で新しい発見がたくさんありました。
ただ、私の腰が持たなかったので、やはり次回は少し短めの時間になるかもしれません…。
(今回は22時終了を23時まで延長させていただきました)

さて、今日のメタファーは「凱旋門」なのですが、私がもし凱旋門をくぐるようなことがあるとすれば、どんなことを誇りに思って、何に勝利したことを讃えてくぐるだろう…と想像してみます。

すると「母親のこと」と心は言ってきます。

母親の支配に打ち勝ったこと?それとも、母親の胎内からようやく本当の意味で出られたこと?
何のことだろう…と思って、さまざまな記憶が脳内を駆け巡ります。

すると、走馬灯のように流れていた映像がある風景でピタッと止まるのです。

それは私が高校卒業後、もう大人になってからの映像なのですが、台所で料理をしている母親を横目で見ながら、リビングでケータイを見ている自分の姿です。

私は、小さな頃から家事を一切やってきませんでした。

だから大人になってもレンジの使い方を知らなかったし、洗濯の仕方も知りませんでした。

それは当時は父親が一切家事や料理をしない人だからだと思っていたのですが、FAP療法を学んでからはどちらかというと、母親に家事を一切教えてもらわないことで「いつまでも母親を頼らなければいけない自分」になってしまっていたということの方が真実だったのではないかと思っています。

「知らない」ということは、私の中では驚くほど恥の感情があります。

「知らない」と人に言うことが、どれだけ苦痛を伴うことであったか。

今でこそ普通に「知らない」と言いますし、無知である方がむしろ良い流れに乗れたりもします。

しかし、無意識の存在を知る前の私は「知らない」と他人に言うことは自分の中で屈辱でしたし、知らないことで自分の評価が下がると信じて疑わなかったのです。

だから、自分の中ではどんどん「嘘を吐いた」という感覚が強くなり、ますます「今の自分ではない自分にならないと!」と自分を追い詰めて苦しくなっていきます。

だけど、ちっとも変わらない自分に絶望しては、今まで吐いてきた嘘の辻褄を合わせるためにますます嘘を吐かなければいけない自分に、吐き気がするほど嫌悪感を抱いていました。

たしかFAP療法の講座を受けた後だと思うのですが、私は自分にも他人にも、一切嘘を吐くことをやめました。

何でもかんでも正直に話す私は、周囲から見たら「それは隠しておいて欲しかった」ときっと思われていて、どんどん自分の評価を下げていってたでしょう。

私は人からの第一印象が良いので、話せば話すほどボロが出るというか「私はそんな高潔じゃありません!」と暴露すればするほど、相手の中の私の存在が「大したことない人間」に変わっていきます。

それを心の底から望んでいたはずなんだけど、私が正直過ぎるが故に、ある人を傷つけてしまいました。

その内容は、相手にズバズバ正直に言って傷つけたのではなく、「私はこんなどうしようもない人間なんです!」とダメなところを開示することで、相手を傷つけてしまったのです。

それ以降、「正直過ぎることもダメなんだな」と学習した私は、「嘘を吐く」ことを覚えました。

それまでも大嶋先生の書籍やブログで「嘘を吐く」ことに対して学んできたはずだったのですが、どこか「嘘を一切吐かない自分」に美徳を感じていたし、過去に自分を偽り過ぎて苦しかったあの日々を絶対二度と繰り返したくない!という決意が強すぎて、きっと無意識に抵抗感があったのだと思います。

20代の頃、TSUTAYAで大量にDVDを借りては徹夜して観て、週に一回は映画館で映画を観て…という生活を送っていました。

映画は何でも良かったのです。
なぜなら、映画を観たいから観るというのは嘘ではなかったけど、映画を観ている自分に酔っていたところが大きかったから。

なので当時観ていた映画の内容は実はほとんど覚えていません。

けれどその中で、観たのか観てないのか覚えてないし、タイトルも思い出せないけど、パッケージがものすごく美しい映画を思い出します。

あらすじは、嘘吐きの男性が主人公で、その嘘は愛する人のために吐いている嘘だという内容だったと思います。

関係ないのですが、私は最近「なぜ、人を殺してはいけないのか?」の問いに自分なりの回答を見つけて、「人が嫌がることをしないように」法律で決まっているのではないかと考えていました。
(こう書くととても幼稚なこと言ってますね)

だから人のものを盗んではいけないし、嘘も吐いてはいけない。
嘘吐きは泥棒の始まりだって教えられてきました。

そうやって教えられてきたからか、「嘘を吐くことは悪事である」「嘘吐きは大罪である」と本気で思い込み、一度でも嘘を吐いたら地獄に落ちて閻魔様に舌を引っこ抜かれる…と怯えて暮らしていました。

私はこのブログを書き終わった時にいつも「なぜ強烈な単語やエピソードが多いのかなあ…」と思っていたのですが(他サイトでは心に聞くを使って書いても、わりと楽しい面白い気づきに繋がるのですが)、きっと「支配」と「偽りの快感」をダイレクトに扱っても良い場所だから、ありありと私の中の地獄絵図が書き出されているのでしょう。

自分で書いてて「気持ち悪!」というブログを心に聞いて認めてしますが、私はこれまで「気持ち悪!」と思わず思ってしまうような状態で人生をそれらと共にしてきたんだなあと、ようやく気づくのです。

私の中の地獄絵図は「他の人の苦しみよりはマシだから…」と自分を納得させてきましたが、何度も何度も繰り返し出てくる偽りの快感や支配の内容は、まるで芥川龍之介の『地獄変』です。

その当時は「なんだろう…この強烈なイメージは…」と能天気だった自分でしたが、今の私からすれば「おいおい…こんなすごいもの背負ってたんですか…」と自分で自分にドン引きします。

これを深堀するともっと恐ろしいことを書いてしまいそうになるのでここでは言えませんが、一言言えるとすれば「母親の愛は幻想」です。

母親は私に助けてほしかった。
母親がギャー!ギャー!ギャー!と泣き叫ぶたびに…という『それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも』の一節を思い出すたびに、なぜか涙がこみ上げてきます。

もう、泣き叫ぶ母親は目の前にいないのに、私は未だに母を助けようとしてたんだ…と。

本日のメタファー:凱旋門

コメント

タイトルとURLをコピーしました