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ひとりでも寂しくないのは嘘ではない。

ひとりごと
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よく大嶋先生の本に書いてあるのは、心に「今、この感覚は誰のものですか?」と自分の中に渦巻く不快感を心に聞いてみると、「それは○○さんのもの」と返ってくるという描写があると思います。

そうなんです。
実は不快な感情って自分のものじゃないことが多いんですよね。

私たちは『虚無』という存在だとして、本来は何も感じていない“無”の状態がデフォルトです。
だけど、人の感情というのは波のように人から人へと伝染していったり、支配者に入れられた感情によって「そこに愛がある」と錯覚してしまいます。

なぜ「愛がある」と思ってはいけないのか?

別にいけないということはありません。
確かに「無意識の中に」は愛があります。
だけど、支配者の中には愛はないのです。

なぜ支配者の中には愛がないのかというと、そこには“幻想の愛”があって、私たちが自由にならないように閉じ込めておく檻のようなものなんです。

特に、誰かと話した後に「何だか悪いこと言ったかなあ…」と反省したり罪悪感を感じたりした時には、“幻想の愛”というものを疑ってみてもいいかもしれません。

私たちはその“幻想の愛”の中に生かされていて、そして「愛されないと死!」というような極端な世界だと思い込んだりするのですが、実際はそうではありません。

『愛』というのはちゃんと自分の無意識の中に宿っていて、それに触れる一番簡単な方法が「心よ」と心に問いかけてみることなんです。

「心よ」と自分の心に問いかけた時に、「自分に都合の良いことばっかり言ってくる!」と思う人もいるかもしれません。
でも、それで良いのです。
何もあなたの人生で、本当は都合の悪いことが起こってほしいわけではないと思うんです。

だけど人はなぜか茨の道を歩こうとしたりもします。
「苦しくないと生きている気がしない!」とか「楽して生きるなんて誰かに失礼だ!」とか、目に見えない誰かのことを想像しては、自分を痛めつける方の道を選ぼうとしてしまいます。

自分を痛めつけては苦しい目にあって、「もうこんな人生嫌だ!」と思っているのに何回も同じことを繰り返してしまう。

大嶋先生いわく、「何度も同じことを繰り返してしまうその裏には、“罪悪感”がある」と仰っていました。

じゃあ、その“罪悪感”を取っ払ってしまったら、何度も何度も自分が後悔するような場面に出くわさなくていいんじゃないか?と思うわけです。

この“罪悪感”というのがミソで、これが支配者による支配の構造だったりするんですね。

支配者は私たち虚無が自由にならないように、罪悪感を入れて支配をしてきます。
「こんなことをする自分はダメ人間…」とか「こんな自分は誰からも愛されない…」とか。

でも、愛されてどうするのかというと、そこには支配の構造が広がっているだけで、本来私たち虚無は“無”だから愛も何も感情がないんです。

感情がないと言うと何だかとても薄情なように聞こえますが、本来は感情がないのにそこに罪悪感であったり悲しみであったりなどの感情を入れられるから、おかしなことになってしまう。

本当はそれをしたくないのに「〇〇さんが悲しむから」とか「仲間外れにされてしまうから」と、したくないことを自分の心に背いてしてしまう。

だけど、そこで一度立ち止まって心に聞いてみると良いかもしれません。
「心よ、この感情は誰のものですか?」

心にそう聞いてみた時に、もしかしたら意外な人物が浮かんでくるかもしれないけれど、それでも心に「心よ、それは本当なの?」とさらに問いかけてみる。

そうやって自分の心と自問自答していくことによって、新たな自分の考えや気づきが出てきて、心が自由に軽くなっていくことを感じるかもしれません。

あなたは本来、自由なのです。
何者にも縛られず、何者にも恐れをなさず、謙虚にならずともいつかあなたは自分の好きなことをして、自分を喜ばすことがきっと出来るはずなのです。

―――――――
大嶋信頼先生の支配の構造には、この本がオススメです。
『支配されちゃう人たち』

「人の中の真実」には3パターンがあります。
虚無・支配者・光の人。
この3パターンによって、愛の構造が変わったり、生き方自体も違ってくるのかもしれません。

パンチが強い本ですしかなり分厚い本ですが、読むと今まで分からなかった『真実』があなたにも見えてくるかもしれません。

誰かに愛されたくて苦しい人は、ぜひ読んでみてください。

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