目の前には真っ赤なボクシンググローブがあって、私の周りには数人の男性が汗を流しながらトレーニングをしています。
そして、ある人は誰かと打ち合いをしていて、またある人はサンドバッグを相手に練習していて、部屋中にグローブが何かとぶつかる鈍い音と荒い息遣いが充満しています。
それから、窓を閉め切って練習をしているので、室内はむわっとした熱気で満ちていて、私も自分の乱れた呼吸を整えようと、したたる汗をそのままに周りの練習風景をぼんやりと眺めているのです。
すると、突然インターホンが部屋中に響き渡り、宅配便の人の元気な声が練習する彼らの息遣いやグローブの打つ音を一瞬止めて、誰が頼んだか分からない荷物の段ボールを持った人は入り口で受取人を待っています。
そして、誰もその荷物を受け取る気配がないなと思ったので、部屋の隅っこで息を整えていた私が行くしかなくて、入り口まで歩いて伝票にサインをして段ボールを受け取る間、他のみんなのトレーニングする息遣いやグローブの音が何の変わりもなく続いていたのです。
だから、配達員の人の声もかなり近づかないと聞こえなくて、無事に荷物を受け取ると、その段ボールは両手で抱えていっぱいなぐらい大きくて、さらに何が入っているのか分からないけれど、とてもずっしり重かったんです。
それから、誰が頼んだか分からない、何が入っているのかも分からないその荷物の置き場を探したくて、練習している彼らの隙間を「どこか良いところはないかな」とあちこち目と首だけを動かして探してみます。
しかし、なにせ狭い部屋なので、彼らが練習するスペースしかほとんどなくて、どこに置いても誰かにぶつかりそうだったので、仕方なくさっき私が座っていた椅子の上に置くと、私が休憩できなくなってしまったので、「そろそろ休憩を終えて練習を再開するか」と思って、彼らの荒い息遣いと鈍いグローブの音が響く中へと入っていきました。
すると、彼らの汗と体温の熱気の中に混じると、急にやる気に満ちてきたので、私の心拍数も上がるようなある意味頭が冷静に落ち着いていくような、そんな感覚を感じます。
そして、彼らとともに練習をしているとやがて日が暮れ、窓の外が藍色に変わっていったころ、一人、また一人と帰っていって、最後には私ともう一人だけが部屋の中で荒い呼吸を響かせながらトレーニングに励んでいました。
そうやって、しばらく二人でバラバラのトレーニングを続けながら、なんとなくお互いの動く音や気配で「そろそろかな」と思ったので、どちらからともなく動きを止めて、呼吸を整えながら帰る準備を始めました。
しかし、二人ともそんなによく喋る仲でもないですし、そもそも二人とも黙々とトレーニングするタイプなので、私たちは黙ったまま足音やリュックのチャックを閉める音だけが部屋の中に響いていて、けれど何も喋らなくてもなんとなくお互いの呼吸が整ってきた頃に「じゃあ、帰りますか」といった雰囲気になって、またどちらからともなく鍵を持って二人で無言のまま部屋の扉の外へ出ました。
そして、このボクシングジムは雑居ビルの3階にあるので、1階まで二人で無言で降りて通りに出ると、私はその人が私とは逆の道から帰ることを知っていたので、なんとなく手を上げて別れの挨拶をすると、お互い別々の方向へと歩き出しました。
そうやって、1日が終わっていく毎日を私は愛しいと思いながら、日が暮れていく夕暮れの道を歩くのも好きだし、暗くなっていく道路を通る車のヘッドライトや近所の子どもが帰っていく風景がなんだかあの感情を思い出させてくれて、あのボクシングジムでみんなの荒い息遣いやトレーニングの音に混じって集中していた時と同じように、街の喧噪の中に私の存在も溶け込んでいくような気がするんです。
やがて、とっぷりと日が暮れて夜になり、空には三日月が薄い雲の切れ間から見えてきた時に、私はスーパーの前やコンビニの前を通っていって、その店の明かりや賑わいが私の心を癒してほぐしてくれているような気がします。
そして、私の家はそんなに遠くなくて、歩いて10分もすると自分のマンションについて、「スーパーに寄らなかったけれど、冷蔵庫には何があったかな?」と夕飯の献立を頭の中でシミレーションしてきます。
そうすると、ボクシングで集中していた時の自分から家へのリラックスした自分へと切り替えられるような気がするので、マンションの姿が見えて玄関のドアを開けるあの距離で、私は「何が作れるかな?何を食べたいかな?」と考えながら、マンションの非常階段をカンカンカンと足音を立てながら上がっていきます。
さらに、4階まで上がって自分の部屋を目指して歩くと、同じ階の他の部屋から夕飯の良いにおいが漂ってくるので、ますます私の空腹感は増してきて「早く美味しいものを食べたい!」と早足で自分の部屋を目指します。
それから、玄関のドアを開けて中に入ると、一人暮しなので部屋の中は真っ暗で、手探りで電気のスイッチを探して点けると、一気に「帰ってきた~!」と緊張がほぐれていきます。
そして、早速冷蔵庫のドアをバクンと開けて中を確認してからエプロンをつけ、お鍋に水を入れてコトコトと沸騰させたり、冷蔵庫から取り出した野菜を並べて順番に切っていくと、ボクシングをしていた時の自分とはまるで違う人物のような気がしてきてなんだかおかしくなってきたので、テレビでも点けようかと思ってリモコンでスイッチを入れると、料理をする音に混じってバラエティー番組の笑い声が聞こえてきます。
そして、誰のためでもなく自分のために美味しい料理を作ろうと思って、私はその行程を楽しみ、そして熱々のご飯を口に放り込むのを楽しみにしながら、コトコトと煮込んでいくのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
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