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知能指数のジオラマを作って他人との距離を知る。

ひとりごと
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『時計仕掛けのオレンジ』という胸糞映画(誉め言葉です)などが好きな元カレがいました。
彼は世の中のすべてを皮肉って見ていて、ああ言えばこう言うタイプでした。

彼の家には古着屋さんで焚かれている白檀のお香が焚かれていて、その元カレと同じように白檀のお香をモクモクと常に部屋の中で焚いていた別の元カレもまた、その彼と同じような部屋の間取りと同じような地域に住んでいた。

そう、本当に彼らの家から家までは歩いていける距離にあって、もちろんこの二人は知り合いではないし、後者の彼は古着好きではなかった。
(あ、でもこの彼の彼女が古着好きだった)

それで、“香り”というのは古い記憶を呼び覚ますのです。
香りだけではなくて音楽も、その当時よく聞いていた曲なら聞いた瞬間に当時の自分の心境を思い出したりすることができます。
「懐かしいな」と言う感覚が、そうなのかもしれません。

それは記憶が感情で整理されているからでしょう。

記憶というのは同じ感情の種類同士が同じ引き出しに仕舞われているのです。
だから恐怖の引き出しを誤って開けてしまったら、恐怖の記憶が次々と出てきてしまって止まらないのは、きちんと記憶の中に整理されておらずフレッシュなまま残っているから。

「懐かしいなあ」と思う感覚って、とても大事なんだと思います。
「過去」と「未来」を自分の中で別物と捉えて、さらに「現在」をきちんと認識するためには思考があっちこっち飛ばないことなのでしょう。

読書をしている時に頭に入ってこないのは、小説のある言葉が脳内で引っ掛かって嫌な記憶がよみがってくるから、だから目の前のことに集中していたはずなのに今目の前にない過去の思い出に囚われてしまう。

そうやって過去の記憶の中にばかり真実を探していると、やがて現在の自分の満足感や充足感がなくなっていく。
なぜなら過去や未来に思考のタイムトラベルをするのは、とてもエネルギーを使うから、現実の世界で「体力がなくて動けない!」となって先のことを想像するだけでどっと疲れてしまう。

もうひとつは、過去や未来という今以外に目を向けた時に、自分の力ではどうしようもできない無力さを感じてしまう。
過去を変えられないし、未来など見ることができないから、今の自分にとって出来ることは限られていると思うと、なんだかすべてがどうでもよくなってしまって努力する気力が出なくなってしまう。

過去は変えられるんです。
それは「認知の歪み」を整えて正しいセルフイメージを持つことで、過去の自分も救えるのかもしれない。

記憶というのは本当に曖昧なもので、時間が経てば経つほど主観的になって都合の良いように歪められてしまいます。

だから「客観的データを集める」というのがとても大事なんです。

主観は「私は〇〇だと思う」「あの人は〇〇と思っているだろう」というような“想像”で、客観的情報というと主に“数字”です。
数字なら人によって長さや大きさが違ったりすることはありません。

気になる事柄の数字をたくさん集めて頭の中でグルグル回す方法は大嶋先生の『お金もちになる人の心理学』で紹介されています。
なぜ数字を頭の中で反芻するだけで無意識が起動するのか?というと、きっと主観は意識だから限界があるのでしょう。

数字をそのまま、そこに意味づけをしたり色をつけたりせずそのままの数字を受け止めて頭の中で繰り返し反芻することで、これまで見えなかった景色が見えてくるのかもしれません。

たとえば、心に聞いた私の潜在的知能指数は「188」です。
(心に潜在的知能指数を聞いて知能のジオラマを作る話も『お金持ちになる人の心理学』で紹介されています)
妹の潜在的知能指数は「133」です。
母親の潜在的知能指数は「47」で、父親の潜在的知能指数は「57」です。
(すべてナラティブで書いています)

私の母親と妹は良いところの大学を卒業しています。
父親は1浪か2浪の末、かろうじて入れた教育学部を卒業後、地方公務員になり定年まで働きました。
母親は容姿にも恵まれていたので、モデルをしたり福娘などをしていたようです。
妹は幼少期こそ勉強はできなかったけれど高校受験で猛勉強をして私よりも賢いと言われている高校に入り、今はお堅い職業で働いています。
部活動もずっと続けており、友達が多くてザ・リア充です。

その中で私は高校生になってから勉強もピアノもドロップアウトし、いろんなところで「神童」と言われていた影も形もなくなり、無理やり入学した専門学校では以前からなりたかったヤンキーというかギャルになりました(笑)

私の遺伝子は父親型ですが、心に聞いた場合の父親と母親の知能の差はそれほどありません。
むしろ、それなら妹もアタッチメントを適切に受けられなかったのではないか?というぐらい知能が両親と離れています。
(知能の差があると親からのアタッチメントを受けれないかも?という今日の無意識の旅の話題です)
まあ、アタッチメントがなかったから未だに妹も恋愛を拗らせて独身のままなのかもしれません。

そこで心に「どうして私は、心に聞いた知能通りの人生を送れていないの?」と聞いてみます。
つまり、家族の中で一番知能が高いなら、それこそ母親よりも賢いと言われている大学を出て、妹よりも稼げる一流企業に就職しているのではないのか?ということです。

すると心から「それはあなたが自分の知能の格差を認めていないから」と返ってきました。

「心よ、それはどういうこと?」と聞くと、心は「あなたは自分の知能が“他人と同じ”と思うことで、自分の知能の低さを草原の草の中に隠そうとしている」と答えました。
その時に出てきたイメージが、雑草が生い茂った冬の空き地のようなところにピューッと冷たい風が吹いている光景です。
しかし、どれだけ冷たく強い風が吹いても、雑草は根がしっかりと地面に生えているから、ちょっとやそっとの風では折れないし、水がなくても数日は生きられるようなたくましさを持っています。

「心よ、私の知能は低いの?」と聞いてみます。
すると心は「あなたの知能は高い低いとかではない。相対的に見て、どの分類の知能に属するかが大事で、だからあなたが出した“188”という数字は相対的な数字である。そこからどれぐらい他人と知能が離れているかを認識することで、あなたが生きやすい“土地”を知ることができる」と言ってきます。

ほーなるほど。
だから本当に知能が188あるかどうかよりも、私の知能が188あったとしてある人と知能がどれぐらい差があるかで“生きる世界”を見つけていく方が大事なんだと言いたいのだろう。
(心に聞くの知能では、大嶋先生が予測したクライアントさんの知能と、クライアントさんが心に聞いて出した本人の知能が±5だったので、だいたいは心が言った知能が潜在的知能指数と思って良いと思います)

だけど、どうしても「知能」と聞くと「高ければ高いほど良い!尊敬される!」というイメージが私の中にあります。
「心よ、この“知能が高い方が良い”というのは私の感覚?」と聞いてみました。
すると心は「それは母親の感覚で、だから母親はあの大学を首席で卒業してあなた達に自慢してくる」と言いてきたので、「今日の心は何だか冴えてるな!」と感心しました。

誰かのモノサシで自分の価値を測っている時に、自分のセルフイメージが歪んでくるのかもしれません。
『ミラーニューロンがあなたを救う!』に、セルフイメージのことが詳しく書かれていると思います。

自分が思う自分は、誰かの脳内で作られた自分のイメージかもしれないし、母親にかけられた暗示によって作られた自分かもしれない。
「本当の自分」と考えた時、私たち虚無は「何も感じていない」ので「何者でもない自分」が自分なのかもしれません。

「自分は何も持っていない」
そこに愛やら幻想を持たされて苦しめられることこそが支配であり、「母親の愛」を求めてしまう幻想から抜け出られた時に無意識の無限の愛を感じて、本来の自分として「一体感」を感じられるのでしょう。
孤独を愛した自分こそが、孤独こそ誰かと一体感を感じる愛がそこに広がっていると実感できるのかもしれません。

 

本日のメタファー:歯車、時計仕掛けのオレンジ

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