タヌキをはじめてみた場所は、キャンプ場でした。
昼間、テントを立てている時にサーッと目の前を走って、森の中に入っていきました。
それ以来、もう一度タヌキを見たいと思っていたのですが、まさか今のマンションの前でっよくタヌキに遭遇することになるとは。
実家の近所にある古墳にはタヌキが住んでいると昔から噂になっていて、妹は何度かタヌキを見たことがあるらしいのです。
夏休みになると朝6時に起きてこの古墳の近くにある神社に集合して、ラジオ体操をしてから古墳のまわりを一周は知って解散します。
その時に、何度かタヌキを見たことがあるらしいのですが、私は一度も見たことがなく悔しい思いをしていました。
そんなこんなで、昔から妹をライバル視しているところがあって、いくら私が周囲から見て「良い物」を持っていたり身に着けていても、どうしても妹が持っている物の方が良く見えてしまうのです。
なぜかは分からないのですが、常に「他人の芝生は青く見える」ということで、自分が今持っている物を捨てても、妹が持っている物が欲しかったのです。
不思議ですね。
何にそんなにライバル心を燃やして執着していたのかは分かりませんが、いつもそこには「勝ちたい」という気持ちがあったのかもしれません。
実際、妹の方はどう思っていたのか分かりませんが、その後妹は私が好きなマイナーバンドにはまり、私以上にライブに行き、そのバンドの影響から軽音部に入ってベース&ボーカルになり、そのバンドのコピーをしていました。
その他にも、私が始めたピアノが羨ましかったのか妹も私と同時期にピアノを始めたのですが、私が始めた年齢より若い年齢で始めた妹に嫉妬していました。
そこにはきっと「幼い内からピアノをする天才」というイメージがあり、私が欲しかった「特別」を妹は意図もたやすくかっさらっていく…というようなイメージに繋がっていたのかもしれません。
誰の特別になりたいか?と言ったら、もちろん母親でしょう。
母親の座席の後ろに座るのはいつも妹で、今になっては座席なんかどうでもいいやんと思うのですが、当時はそれが母親に愛される場所だと本気で思っていました。
なぜ、母親に愛されたいのか?という答は、心理学的に言うと「母親に見捨てられたら生きていけないから」かもしれません。
だけど、私はそもそも本当に母親に愛されたかったのだろうか?という疑問もあります。
そこで心に聞いてみたところ、なんと私は母親に愛されたいわけではなくて、妹に母親を奪われるのが嫌だったのです。
若干の言葉のニュアンスの違いですが、この「奪われる」というのが嫉妬の感情を起こす原因になっています。
「奪われる!」と思った時に発作が起きて、破壊的な人格になって妹に余計なことを言ったり、せっかく自分が良い物を持っているのにそれを破壊して妹の物を手に入れようとしていまします。
では、なぜ?どこで母親を「奪われる!」と判断していたのかというと、私の場合は「妹には笑いかけるのに私には無表情」ということです。
たぶん母親自身は私に笑いかけていたつもりなのかもしれませんね。
だけど、私は幼い頃に母親が笑っている姿を思い出せませんし、いつも怠そうで不機嫌な母親の記憶しかありません。
そう、熱を出した時に妹の背中はさすっているのに、私にはさすってくれない!というのも嫉妬の発作の一つでした。
そうやって、いつの間にか母親に愛される妹と愛されない自分の間に溝が出来て、どんどん勉強が出来なくなり、私は不良になっていったのです。
心に「私にとって、大きく道を外す必要はあったのか?もっとスマートに生きても良かったんじゃないか?」と心に問いかけてみます。
すると心は「いいえ、あなたがスマートに生きたからと言って、決して幸せかどうかは私には分かりません」と答えてきます。
では、「心よ、私はあんなにも悩む必要があったのか?私が嫉妬する必要はなかったのではないか?」と心に問いかけてみると、心は「そうですね、もしかしたら悩む必要はなかったかもしれませんが、あなたの人生に必要なエネルギーというのはあの時代に蓄えられたのかもしれません」と言います。
怒りをエネルギーに変えるとかのエネルギーかな?と思って心に聞いてみると、心は「そうではありません。あの頃に蓄えたエネルギーはあなたの源であり、あなたが生きていく上で必要な人間関係に関する知識を学ぶのに必要だったかも」と答えます。
「心よ、たとえば?」と聞いてみると、心は「そうですね、たとえばあなたは“嫉妬”というのは悪い感情と捉えているのかもしれませんが、嫉妬が生まれるからこそ、あなたの中で“勝ちたい、負けたくない”という感情が生まれます。それは決して無駄なことではないのではないでしょうか」と私に問いかけてきます。
大嶋先生は、嫉妬はトイレに行きたくなるのと同じぐらい自然に湧き上がってくる感情であると仰っています。
私はそれまで、みんな「嫉妬なんかしない」と思っていました。
それは、私のように醜い嫉妬の感情を持っていないということと、もう一つは「私なんかに嫉妬しないだろう」という感情です。
だから、大勢の人のいる中に初めて入った時に感じた悪意が、あれが嫉妬の感情だと知ったときはものすごく疲弊しました。
嫉妬って怖いんだなあと実感したのは、もっと後の話です。
この嫉妬の感情を抑えようと思ってもコントロールできるものではありません。
なので「何が何でも嫉妬をしたくない!」と思っていても嫉妬の感情というのは自然と出てくるし、それが人間である証拠だと思います。
いくら「私に嫉妬しないで!嫉妬されたくない!怖い!」と思っていても、嫉妬を避けて謙虚に振る舞えば振る舞うほど相手は横暴になるし、こちらに酷い対応や扱いをしてきます。
「義人はいない。一人もいない。」です。
別に世の中全ての人を「こいつは悪いことを企んでいる!」と疑ってかかれというわけではありませんが、私のように人に期待をしてはその期待が裏切られて「なんやアイツは!」と怒ってしまうようなタイプの人は、「人は本来、自分のことしか考えない生き物だ」と思ってみても良いでしょう。
このことは心理学書や哲学書を含め、数多くの研究でもそう言われていることでしょう。
人って自分のことしか考えてないし、だから私も私のことだけを考えていて良いのです。
本来人間は自分の幸せだけを追求して生きていいのだと思います。
中には「人を幸せにするのが幸せ」な人もいるかもしれませんが、でも世の中は結局、自分のためにやったことが誰かのためになったりします。
それは多分「与え合う」と考えた時に、「持っている人」がより自分を幸福に導こうと行動したことは、周囲にも伝染して、「与え合う」花が次々とまわりに咲いていきます。
花が咲いたところにはその花がやがて実を結び、そして種が落ち、また新しい芽が出て花を咲かせます。
そうやって盛者必衰ではあるけれど、栄えては衰えた時にまた新たな種が巻かれて、そこから新しい生命が芽吹くと考えると、自分の些細な行動が何かの種を蒔いたという喜びを感じることができます。
矛盾した話になりますが、とある研究で人が幸福を感じるのは「人のために役に立った」と思う行動ができた時だそうです。
でも、『「与え合う」ことで人生は動きだす』にも書いてありましたが、自己犠牲で誰かのために捧げるのとはまた違います。
これは単に自分をすり減らす行為になるので、「自分が本当に満たされること」で周囲に何かを与えられることができたら、そこから与え合う循環が次々と舞い起こって、自分も人も満たされていくのかもしれません。
「自分が本当に満たされることって何?」とお悩みの方は、心に「心よ、本来の私は何を望んでいるの?」と聞いてみてください。
すると私の場合は「よく寝てよく食べて体操をすること」と答が返ってきたのですが、実際これをやって自分以外の誰に何を与えられるのかは分かりません。
本日のメタファー:タヌキ
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