昨日はまちごこち文庫のイベントの1つ、哲学対話(あいーださん主催)に参加してきました!
めちゃくちゃ良かったです…。
とても濃密で良質な時間を過ごせて感謝です!
濃密すぎて、1日経ってもまだ深く深く潜っている感覚です。
水槽の中で息苦しいんだけど、あの水中で聞く鈍い外の音のように周りの声が聞こえる。
コポコポコポ…
そこから出て普段の日常に戻ってしまうと、あの時に出たみんなの大切な思考の1つ1つが、開いた指の隙間からぽろぽろと零れ落ちてしまそうだから。
あの時間に会話したすべてを忘れたくないと思ったんです。
昨日は、『時間』というテーマで哲学対話がスタートしました。
なぜ時間を大切にしないといけないと思ってしまうのか?
第1回の時も「時間をムダにするとはどういうことか?」という話だったので、一気にあの日の記憶が蘇ってきました。
不老不死だと時間を大切に使わなければ!という感覚がなくなるのか?
不足感を感じているから、目に見える何かで満たそうとしているのか?
ただ私たちはその“分からない”言葉に名前をつけて、不安をなくそうとしたがっているのか?
もうほんとにここには書き切れないぐらい、もっともっと大事な話がたくさん出たんだけれど、もうこれは哲学対話を実際に体験していただくしか感動は伝わらないと思ってて(笑)
とにかく、昨日ガーン!と考えさせられた意見の1つに、「他人の時間は大切にして、自分は自己犠牲している」というお話。
たしかにー!と思いました。
人の時間はムダにしてはいけないと思って、自分のやらなければいけないことを後回しして返信したり、相手のためになることばっかりやってるのに、私は自分のご飯の時間やお風呂の時間、寝る時間を削っているんです。
「あれ?自分のこと大切にしてなくね?」って気づいてしまいました。
『時間』について話していたはずなのに、いつの間にか私は「自分は人生で何を成し遂げたいのか?」ということを考えていたようです。
私は自分の人生で何を大切にしたいんだろう。
そもそも、人生ってなんなんだろう。
誰かの話を聞いて、深く深く自分の中に潜って自問自答していく。
すると、また別の誰かの話が違う角度から聞こえて、「こう考えがまとまりそうだったけど、ここに嵌まるピースはこれなのかもしれない!」と光が少しくっきりして見えてくる。
でも、哲学対話のテーマって「答のない問いを考える」ことだから、「これはこういうことでしょ!」て早々と結論付けてはいけないと思って、どんどん深く潜っていく。
すると、対話が最初と全然違う場所に着地するから面白い。
第1部の最後で、「じゃあ、なんで戦争が起きるの?」という大きな疑問を投げかけられて第2部に移ったのですが、第2部の『哲学対話とは?』というテーマの最後でも「戦争」に行き着いたのには驚きました。
そうか、人間赤潮なのか!
だから戦争が起こるのか!
(ああ、昨日の対話が素晴らし過ぎて、参加者のみなさんをここで紹介してもいいなら紹介したいです!)
たぶんこの最後の人間赤潮からも、まだまだ我々の「問い」は進化して、私たちの中で生き続けます。
そして、今日ふと思ったんです。
昨日あれだけ「時間を大切にするってなんだろう?」と考えていて、今日起きてから昨日の哲学対話について振り返った時に「参加して良かったー!」と。
あの時間こそが私にとって大切にしたい時間なんだと。
そうか!あれこそが「時間を大切にしている感覚なのか!」と。
こんな近くにあったんです。
きっとさらにそこから、「じゃあ、なんで大切にしたいと思ったのか?」という問いが始まるのだけれど、それはまだあの時の世間から切り取られた空間に私を置いて潜ったまま、もう少しこの感覚に浸ってみたいと思います。
大切なものと、大切じゃないものに違いはあるのか?
そう!「自然と不自然」や作為の話も興味深かったです。
あそこももっと掘り下げていきたかった。
自然な行動と思ってやってること自体が不自然にならないのか?
不自然だと感じることが実は自然なんじゃないのか?
もうー分からん!笑
とにかく、自分の頭の中で考えているだけじゃ絶対にたどり着けなかった領域に連れって行ってもらえる。
それが哲学”対話”の1つの魅力なのではないかと思っています。
私、何があっても人の意見を取り入れたくない人だったんですよ!
それが、こうやって哲学対話に参加するごとにみんなの考えを聞いて「すげー!」って思って、それが数日経っても自分の中で育っていく感覚。
1つの種をみんなで交代しながら水やりして花を咲かせていくような、あの一体感は病みつきになります。
下の写真は、哲学対話の帰りに見た、信号無視をしている鹿さんたちです。
自動車の方々が待っていてあげて、微笑ましかったです。





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