「お腹が空いている自分」をイメージしてみると、なんだかとても居た堪れないというか「かわいそう」な気持ちになってきます。
空腹の自分が、まるで幼い子供が我慢しているような健気さがあり、懐かしいような胸が痛い感覚があります。
ふと思い出すのは、私がチョコを食べようとすると、当時私の顔面はニキビだらけだったので母親が「食べたらあかん!」とチョコを禁止していたこと。
もしくは、昔、私はシリアルに憧れがあったのですが、家族団欒の時にお菓子でどうしてもそれを食べたかったのですが、家族の誰も牛乳を注いで食べるということを教えてくれず無視されていたので、味気のないシリアルをみんなが見ているテレビの横でボリボリと悲しい気持ちで食べていたことを思い出します。
また、母親と大喧嘩した時に、毎回私の夕飯が捨てられて食べられず、大泣きしていても家族全員に無視されていたこと。
そんなことを思い出すと、「ああ、食って私にとって嫌な思い出しかないなあ」と思います。
誕生日やスキー旅行の時は、必ずフランス料理フルコースだったのでマナーは同年代の子よりも知っていたのですが、私は常にお腹を空かせていて愛情にも飢えていたのでしょう。
だから私は大人になってからも、自分の食事をないがしろにすることが多かったし、めちゃくちゃ稼いでお金を持っている時でさえ、ご飯を買わずにひもじい思いをしていました。
財布に1万円入っているのに、どのレストランに入って良いか分からず、結局コンビニでとても安いおにぎりを買って腹ごしらえするみたいな。
喉が渇いているし、目の前に自販機もあるのに、何を飲んで良いか分からないから買わずにいると、どんどん喉の乾きが酷くなっていくような。
一見すると、自分で自分を虐めているような状態です。
だけど、その根底にあるのは、「母親にまだ謝ってもらっていないから、私は私を許していない」という、罪と罰を自分に与えているようなイメージです。
つまり、私の主体は私ではなく「母親」になってしまっているのです。
だから、私が自分で自分を虐めているのではなく、「母親に許しをもらうまで、私に自由は与えてもらえない」と自ら拘束を作っている状態です。
言葉にすると「同じやないかい!」と思いますが、大きな違いは「母親という神が自分の中に棲んでいる」こと。
私の中の母親がいつも「あれはダメ、これはこうして!」というのを指示してくるですが、私はそれを「自分の意見」だと思ってしまっているということ。
だから、「あれをやらなきゃと思っているのに、体が動かない」となってしまいます。
「私の中の神」は絶対的な存在なので、それに逆らうことは万死に値します。
本日のメタファー:地下鉱炉
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