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「美しく生きる」ということ

気づきの記録
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現在、大嶋先生の「無意識さん」の本を読み直しています。

この本、何回読んでも内容を思い出せないんですよね~。
しかも、読んでも読んでもなかなか無意識を使うコツを教えてくれなくて、そしたら狙った感じに「そろそろ無意識を使いコツを教えろよと思ってますね」といったことが書かれていて、ドキッとしたり(笑)

大嶋先生のそうゆうところが大好きです!(笑)

 

さて、意識無意識の違いというのは、これまでもさんざん至るところに出てきましたよね。

意識は有限、無意識は無限。
意識はドット、無意識はドット以外。
意識は「分かっている」、無意識は「分からない」。

そして、この「無意識さん」の本を再読していて改めて気づいたのが、「無意識=美しい=快」だということです。

「快・不快」を大切にするというのは先日までの私のブログで散々書いてきました。
だけど、「快・不快」の中には「偽りの快感」というものもあって、本当はしたくない!と思っているのに快だと勘違いしてしまっている場合もあります。

私はそれをよく、ドラマを観たりマンガを読んだりする時に考えていたのです。
果たしてこれは「偽の快感」なのか「本当にしたいこと」なのか。

でも、頭で考えれば考えるほど、こんがらがってきます。

そこで、もう一度「無意識を起動する」方法について学びたいと思い「無意識さん」の本を再読し始めたのですが、「あ!そっか、無意識は“美しい”基準なんだ!」と思い出したのです。

そこに美しさを感じられるのであれば、無意識が宿っているといこと。
なので、最近はもっぱら「これをしている自分は美しいか美しくないか?」で選ぶようにしています。
そうすると、とても納得するんですよね。

心に聞いて「ん?これは本当に心の声?」と感じることがあったら、それはどこかで“意識”が入ってしまっているのかもしれません。
だから、その都度心から邪魔を排除して「本当にこれは心の声?」と心に確認していく必要があるでしょう。

それと同じで、自分の快・不快も「美しい」と感じることも、日々自分が成長していくと同時に変化していきます。

(日々成長していく話は、『毎日がうまくいく朝のスイッチ』のバージョンアップしたことを5つ挙げる章の言葉を参考にしています)

最近、友人と「否認」の感情と「本当に不快を感じている」の境目が分からないということを話していました。

もしかしたら、究極「自分の中の不快」はすべて「否認」に繋がっているかもしれませんが、どうしても納得できない。

それこそ否認だろ!と突っ込まれそうですが、じゃあ心に「否認と不快な感情の違いは何?」と聞いてみました。

すると心は、「それはあなたが自分を許せるか許せないかの違いだよ」と言うのです。

「心よ、というこはどういうこと?」とさらに突っ込んで聞くと、心は「つまり、あなたが否認だと感じたら否認だし、不快だと感じたら不快なんだよ」と言ってきます。

確かにあれこれ分析していくほど意識的になってしまって、本来の目的を見失ってしまいそうになります。

私の今年の目標は「手加減をしない」なのですが、そこでも気づいたことがあります。

手加減をして相手の知能に合わせていた時は、いつも自分の中が怒りでいっぱいで、相手への説明が回りくどくなっていました。
なぜなら、相手への怒りを抑えながら話しているから、要領を得ない話し方になっていたのです。

だけど「手加減をしない!」と思って“本来の自分”として話すと、なんとも簡潔な言葉で伝えられるのです。

以前は「こう言うと怒ってるように聞こえるなあ…」と考えて、長々と怒りを隠すような喋り方になっていました。

本来の目的「美しく生きる」を大切にしようと思った時、「相手に合わせるのではなく、本来の自分の言葉で話す」と思うと、ストレートな言葉がバシッと出てきます。

これが「本音モード!」なのでしょう。

私は実は初めから自分がどう感じているのかを知っているのです。
そこにあれこれ理由をつけて捻じ曲げてしまう時、私は「美しくない」と思ってしまいます。

だからこそ、本来の知能で「手加減せずに生きよう」と思った時、そこには否認とか不快な感情とかどうでも良く、ただただ「私はこう感じている」という本来の自分の感情を感じられます。

何はともあれ、自分の「意識」という檻の中から解放されて自由になれば良いのです!
その方法が、否認であり脳内ネットワーク理論であり、それが正しい間違っているではなくリフレーミングして意識の外へ冒険行けるようになれば良いのです。

さあ、美しさを極めに、一緒に旅をしましょう!

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