ある人が言っていたんです。
「家に帰っても仕事のことばかり考えてしまうし、やりたいことがあっても頭の中には常に誰かが居座っているから、目の前のことに集中できないんです」と。
その人は、休みの日でもリラックスすることができず、常に次の出勤日のリハーサルを頭の中で行っているそうなんです。
私は、その人の顔を眺めていると、ある病院の風景が浮かんできました。
そこで、その病院の風景に注目していると、看護師さんが誰かを呼ぶ声や、スリッパでパタパタと廊下を歩く音が聞こえてきたんです。
そして、その人に病院のことを話した時に、「自分は小さい頃、定期的に病院に通っていたんだ」という話をしてくださったので、私はしっかりとイスに腰を落ち着けて、その話を聞くことにしました。
それから、その人はゆっくりと口を縦に開いて、大きく瞬きをしてから、おだやかな低いトーンで話し始めたんです。
そうして、あの人は自分の小さい頃を今まさに頭の中で思い出して、あの元気だった子どもの頃に戻ったような表情をしながら、指先でトン・トン・トンとテーブルを叩きます。
なぜなら、それはあの人が何か楽しいことを思い出している時の仕草だったので、私もあの人が叩くトン・トン・トンというリズムを頭の中で反芻させながら、その呼吸のリズムに合わせていくのです。
すると、まるであの人と同じ記憶を共有しているような気持ちになってきて、「そうそう、私も子どもの頃に病院に通ってたなあ」と、あの病院のクリーム色の廊下を思い出します。
けれど、もしかしたら私が思い出している病院と、あの人が今思い出している病院は違うんじゃないか?と思うと、途端にあの感情が湧いてトン・トン・トンのリズムが乱れそうになるのですが、私が目を開けてもあの人は幸せそうな顔でトン・トン・トンとテーブルの上でリズムを刻んでいたので、私も安心して再び目を閉じました。
そして、再び瞼の裏で幼い頃の自分を思い出してみると、病院で注射を前にして、「注射なんかこわくない!」と笑顔で宣言している自分の姿が見えてきて、これは本当にそうだったのかなあという疑問が頭に浮かんできました。
なぜなら、大人になった私は注射が苦手で、注射器が腕に刺さっている時にその様子を見ることができなくて、そんなことを思い出すと、「小さい頃の自分は偉かったんだなあ!」と感動するのです。
だから、この感動を目の前のあの人に伝えてみようと思って、目を開けてあの人に声を掛けてみると、あの人はトン・トン・トンというリズムを打つ指を止めて、私に呼吸を合わせるように「うん、うん」と相槌を打ってくれるのです。
そうやって、私の話を聞くあの人の相槌を聞いていると、私はどこまで自分の話をしたのか曖昧になってきて、私もいつしか「うん、うん」とあの人とただただ笑い合っているのが、とても可笑しかった。
でも、具体的な言葉も何もなく、ただ「うん、うん」とお互いの目を見て頷き合うのは、相手の瞳が見えていても見えていなくても、「ああ、今私は相手に受け入れてもらえているのかもしれない」と思ったりするのです。
それから、あの人に「どうして笑っているんですか?」と笑顔のまま聞いてみると、あの人は小さくふふっと笑ってから、1つ大きな深呼吸をしました。
それから、細い目をさらに細くして、あの人は吐息を吐くような小さな声で、私にある物語を話してくれたのですが、私はその声が小さすぎてところどころしか聞こえなくて、どちらかと言うとあの人が話しながらパタパタと上下に動かしているスリッパの音の方が気になっていたんです。
しかし、あの人の話に興味がある私は、パタパタというスリッパの音の合間に、なんとかあの人の声を聞こうとして、あの人の方へぐっと身を乗り出すと、あの人もそれに気づいたのか、ちょっと声が大きくなって、真剣な目で私を見つめ返してくれます。
そして、私があの人の話を一言一句もらさず聞こうとしていることに気づいたあの人は、パタパタというスリッパの音を止めて、テーブルの上にあったグラスコップの中のカフェオレをズズズッとストローで吸いました。
すると、私はなんだかちょっと申し訳なくなって「いや、スリッパをパタパタしてもらっても大丈夫なんですよ」とあの人に伝えると、あの人が私の手の甲にそっと触れるので、私はそのぬくもりがじんわりと伝わった時に、自分の指先がとても冷えていることに気づいたんです。
だから、あの人に「どうして私の手が冷えていることを知っていたんですか?」と聞いてみましたが、あの人はただただ微笑むだけで、私はその答を聞くことが出来ませんでした。
けれど、あの人が再びこっそりスリッパをパタパタと上下させている音がテーブルの下から聞こえてきたので、私は安心して、自分の話の続きを始めました。
そして、あの人は私の話を、まるでお気に入りの歌を聞くように、スリッパや指でリズムを刻むと、私と同じ呼吸のリズムにピッタリはまっていくので、いつしか私は自分の存在がそこにある空気のような、あの人の奏でるリズムのような、何者か分からない感覚で境界線が染み込んでいくのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭にながれていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
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