「母親の支配」というと、“人には言えない秘密”が家族間にあることと私の心は言う。
それは大嶋先生のブログに出てきた「ファミリーシークレット」の話なのかもしれない。
支配者とは、我々虚無に愛を与えて、罪から救い出してくれる存在である。
そこに罪があろうがなかろうが、「救う」ことで愛を与えるのである。
私の母は、私が家族から離れている間に家族間の問題を1人で背負って、10年も耐えてきました。
「家族の罪」は私の罪でもある。
なぜなら、血が繋がっているから。
同じ血が流れているということは、私は同じ罪人であるということ。
だから、私は「自分には幸せになる権利なんかない」とずっと思っていたのだけれど、それも「支配」でそう暗示が掛けられているだけだったのである。
というのも、そこには「罪人は許されない恐怖」というのがあって、一度ついた傷は生きている限り二度と拭えないと思っていたのだ。
まるで烙印のようにいつまでも私にべっとりと張りついていて、私が清く美しく生きようとするたびに「ダメダメ、あなたにはこの烙印がついてるじゃない!」と思い出させてくるのです。
これは「裁かれる恐怖」とはまた別物だと思っている。
「裁かれる」というと行いをジャッジされるとか、あなたは間違ってるor正しいの裁判のような感じだが、「罪人は許されない恐怖」というと“一度でも失敗すると地獄行き”みたいな、一度ついた傷は何があっても取り消せないという感じです。
でも、正直家族のことだから私には関係ないじゃない?と思います。
なぜ私が家族の分まで背負って「幸せになってはいけない」と思っているんだろう、と自分でも不思議に思います。
それは、「家族ってかわいそう!」と思うこと自体が支配だから。
罪を犯した家族に対して、「なんでそんなことしちゃったの?かわいそう!」と思うことで、実は家族に足を引っ張られている。
そう、私はたしかに「罪人の家族と同じ血が流れている」と思っているけれど、それと同時に「かわいそうな家族を置いて私だけ幸せになれない!」という憐れみを持っていたんです。
それはもしかしたら、家族のGABRG2遺伝子がオンになっていたからかもしれません。
だから、私に「かわいそう!」と思われることで家族が発作を起こして、私にひどい言動を取っていたと考えられます。
そして、そんな私が社会に出ると、「かわいそうな人」を見て家族を投影してしまいます。
すると、助けなくてもいいのに声を掛けて巻き込まれていって、「かわいそう」と思った人に盛大に足を引っ張られてしまいます。
これを何度も何度も繰り返して、大嶋先生の書籍や講座で何度も何度も「かわいそうと思うのはアウト!」と学んできて、やっと「かわいそう!」と誰かに思った瞬間に距離を取れるようになりました。
「かわいそう」って、上から目線なんですよね。
蜘蛛の糸を垂らしている側になっている私自身もまた、「神になった万能感」でかわいそうな人を救えると思っていたのだと思います。
私は小学生の頃から母親に、「私は本当の子供じゃないんでしょ!」と言っていました。
なんでそんなことを思ったのか分かりませんが、自分はずっと拾われた子供だと思っていました。
きっと、それだけ「私だけなんか違う」という違和感があったんだと思います。
家族の中で私だけが異質であるという感覚です。
それはもしかしたら、私だけが高尚に生きていると家族間のバランスが取れないということだったのかもしれません。
私だけが清く美しく何事もなかったように涼しい顔をして生きていると、私以外の家族が私の不幸を全て背負うような感じになってしまう。
家族に不幸を押しつけることができなかった私は、家族間の不幸を均等にするためにも「私だけが幸せになってはいけない」と思いながら家族を憐れみ続けていた。
もう母親をかわいそうと思う必要もないし、家族を助けてあげなきゃ!とヒーローになる必要もない。
だって、家族ははじめから何も苦しんでいなかったのだから。
それが支配が見せる物語の偏りなのかもしれない。
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