最近、永井玲衣さんの【水中の哲学者たち】を読んで、また1つ私の人生に彩りが生まれました。
詳しくは後日レビューとしてまとめて書こうと思っているので、今日は少しだけ。
永井さんは全国各地で『哲学対話』を行っている哲学者です。
永井さん曰く、「哲学」とは問うことである。
そして、日常でもやもやしたことがあるのなら、それは「哲学」の始まりであるという言葉にとても心を打たれました。
私の中の「哲学」のイメージは、難解な言葉を使って答の出ない答を永遠と探しているイメージでした。
小学生の頃から哲学というジャンルはとても気になってはいたのですが、「考えることって何か得るものがあるの?」と思っていた私は、答のない問いに向き合うよりも単純明快な答を求めて心理学の道へ進んだのだと思います。
そして今、永井さんの本で「哲学とは」を知って、「哲学ってすげー!考えるってすげー!」と感動しています。
トラウマにまみれていた頃の私は焦燥感いっぱいで、「待つ」ということが苦手でした。
本も早く結末が知りたくなって最後から読んだりしていました。
そして、人との沈黙にとてもそわそわしてしまう。
けれど、「哲学対話」は考えがまとまっていなくてもいい。
沈黙があってもいい。
話すよりも聞くほうが大切。
すでに私は大嶋信頼先生のメソッドで、自分の頭で問いをうーんうーんと考えなくても、心や中指ビンゴに聞いたりして、一瞬で答を出すことができます。
トラウマで過覚醒だった私の脳は、いつも「あの人になんて返信しよう?」「さっき話した人、怒ってなかったかな?」「明日はどうしよう?」と考えることでいっぱいでパンク寸前でした。
でも、今や「メール返す直前に心に聞いたらいっか~」ぐらいのノリで、ずーっと頭の中でぐるぐるとベストな選択肢について考える必要がなくなりました。
それは私にとって大きな生活の変化です。
「考えなくてもいいって、こんなにも楽なんだー!」と。
今年に出た大嶋先生の本に書かれていた「葛藤」の話。
二択でどちらかを選ぶ際に、興奮性ニューロンと抑制性ニューロンのどっちも興奮してしまうから、「選べない!」となってしまって、延々と頭の中で決断を迷ってしまって、結局一番やっちゃダメなことを選択してしまう。
この脳の興奮が収まってきたからこそ、「問い」を楽しめるようになったのかもしれません。
迷った時はなんでも「心よ!どうしたらいい?」と聞いてきました。
というか、悩んだ時に心や指に聞くことを自然とできるようになるまで、かなり意識的に努力してきました。
覚えたての頃は、心に聞くことをすっかり忘れていて、すぐに頭で判断しようとしたものです。
心に聞けるようになっても、「ほんとに?」と思ってなかなか心の言う通り実行できませんでした。
でも、心の言うことを無視して動いてドカーン!ということを何度も繰り返して、「心の言う通り動くって、すごく美しい無意識の世界が見れるんだ!」と無意識に任せて生きられるようになった。
そんな私が!
心に聞かずに、「問い」を頭で考えている!
最近、面白いことがありました。
哲学対話にハマっている私は、「心に聞く」も1人哲学対話みたいなもんだよね!だって、心に「なんで?」って問いをぶつけてるもん!と思っていたのですが、心に聞かずに「問う」ことを楽しんでみようと思ったんです。
それで、「なんでお金が増えないのか?」という問いをテーマに、頭の中で1人哲学対話をしてみました。
そもそも、なぜ私はお金がほしいの?
お金をたくさん稼いでも満たされないって、昔に知ったよね。
だけど、やっぱり将来のことを考えると不安だから、たくさん貯金がほしい?
私は本当にお金を増やすために行動しているのか?
お金があったらムダ遣いしてしまうから、今のままでいいんじゃない?
とか、いろいろと自分で出した問いにさらに問いを考えていきました。
認知行動療法みたいだなとも思います。
やっぱりいろいろ繋がっているんですよねえ。
で、1人だとやっぱり限界があるので、ある程度自分の頭の中で問いの答を考え切ったら、最後に心に聞いてみました。
果たして、私が一生懸命自分の頭で真面目に真剣に考えた答と心の回答は同じなのか?
答え合わせをするつもりで、「心よ!なんでお金が増えないの?」と聞いてみたら、「母親を許してないから」と言われて「え!?」となりました。
全然違う答が返ってきたやん。
だから、心は面白い!
ちなみに「母親を許してない」ってどういうことかというと、そもそもお金の不安は母親の不安なんです。
母親のお金の不安を受け取って、私が自分のお金の不安にしてしまっている。
だから、お金が増えない。
母親は、私の人生を奪ってしまったと思っている。
そして、私が「親のせいで!」と怒っている限り、母親の支配から出られないからお金が増えないと心は言っているのである。
と、こんなふうに「心ってやっぱすごい!」と思うのは、意識でまったく予想していなかった答を返してくれるから。
でも、哲学対話のように自分の頭の中であーではないこーではないと考えるのも楽しい。
そう、考えることは楽しいんです!
なぜ考えることが「楽しい」と感じられるんだろう?と思って考えてみました。
私は「問い」の他に、何かのタイトルを考えたり、美しい言葉で造語を作ったりするのも好きです。
アイデアを出すのも好きかもしれません。
これは何かを「選択」する際の楽しさでもあるような気もします。
あーでもない、こーでもないとワクワクしながら未来を見るような。
「これ似合ってるかな?」「色のバランスおかしくないかな?」と鏡の前でファッションショーをしているような。
占いサロンを共同経営している友人が「人には選ぶ楽しさがある」と言っていたことを思い出します。
悩むことが悪いことではなく、悩むことは「哲学の始まりなんだ!」と思って、「なぜ私はそんなことが気になるの?」「どうしてそう思うの?」と自分に問いかけていくことは、自分の殻を自分の手で壊して新しく生まれ変わっていくような楽しさがあるのかもしれません。
どこを叩いたらヒビが入りやすいかな?と、「この答じゃないかな?」というような感じで殻を叩いてみる。
響かない。
じゃあ、今度は正反対の答だとどうだろう?
それもビクともしない。
いろんなところをいろんな問いでコンコンとノックして、自分に響くところを見つけていく作業は案外好きなようです。
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