ある女性が、お裁縫がとても苦手なんだけれど、お気に入りのスカートの裾がほつれてしまったので「縫わなければ」と毎日思っていたのですが、なんとなくやる気になれなくて、毎日目に見えるところに置いたまま、毎日「縫わなければなあ」と思っていたんです。
そして、「今日こそは」と思って押し入れを開けて裁縫箱を出そうと思うのですが、その裁縫箱は木でできている立派なものなので、入れものだけでかなり重たく、それを持ち上げることを想像しただけで「まあ、また今度で良いかなあ」と思って、また扉をパタンと閉めたんです。
けれど、やっぱり一日に何度も「縫わなければ」と思い出すのですが、それは包丁でキュウリをトントントンと切っている時だったり、晴れた日にベランダに出て暑い日差しを感じながら洗濯物を干している時だったり、玄関を出て鍵を閉めている時だったりするんです。
だから、「今日こそは」と思って押し入れの軽い扉の取っ手を持って開けるんだけれど、重い裁縫箱を見るとやっぱりあの気持ちが浮かんできて、ちょっと裁縫箱から目を逸らした時に、銀色のピンセットが目に入ってきたんです。
そして、ピンセットをつまんでみると、押し入れの中にずっと置いてあったからか、鏡のようにつるんとしたステンレスの表面はひんやりと冷たい感触があって、いつからそこにあったのか分からないので、何度かぐっぐっと力を込めてその弾力を確かめてみます。
それから、裁縫箱の隣にあったガラクタ箱を押し入れから取り出してみると、箱の中に手を突っ込んで、中に無造作に入っているカラフルなビーズやビー玉をかき混ぜてみると、ガチャガチャと静かな部屋の中に大きな音が響き渡ります。
そして、ぐるぐると箱の中のビーズやビー玉に触れながらかき混ぜていると、冷たく固い感触がなんだか心地よくて、ずっとかき混ぜていたくなるんです。
しかし、いつまでもかき回しているわけにもいかないので、次に私が目をつけたのは、小さいピルケースに入ったスパンコールやチャーム、デコパーツです。
そして、それらを床いっぱいに広げてみると、まるで子供に戻った時のようにあの感情が湧いてきて、女性は「どれを手に取ろうかな?」と1つ1つゆっくりと眺めて、気に入ったものは手に取ってピルケースを振ったりして、中のパーツがカシャカシャと鳴る音を確認してみると、それは小学生の頃に音楽室で触ったことのあるマラカスのような音がしたんです。
そうして、カシャカシャと一番いい音をしていたピルケースの蓋を開けると、ピンセットで小さなパーツを1つつまんでみたのですが、力を込めすぎるとピンセットの隙間からつるんと落ちてしまいそうな絶妙な加減だったので、ドキドキしながらつまんだまま、狙ったところに移動させます。
なぜなら、私はそのパーツを見た時に、自分のスマホのカバーをデコレーションしたい!ということを思い出して、このパーツを買った時にイメージしていた苺のショートケーキのようなスマホカバーを作ろうと思ったんです。
しかし、それを作ろうと思うとなかなか時間が掛かりますし、女性が苦手な細かい作業なので、果たしてやり遂げられるかどうか心配だったのですが、1つパーツをつまんで狙ったところにくっつけると、どんどん形になっていく様子がとても面白くて、気分が乗ってきた女性は無音だった部屋に好きな音楽を掛け始めました。
そして、音楽に乗ってパーツをつまみ、貼り付け、遠くから眺めてバランスを確認して…と繰り返していく内に、ピンセットでつまむ力加減にも慣れてきて、最初は落とさないようにプルプルして慎重になっていたのですが、いつの間にか職人のような手つきでどんどんショートケーキを完成させていくのです。
そうやって、どれぐらいの時間が経ったのでしょうか、お昼過ぎだったのが気づいたら窓の外が暗くなりかけていました。
そして、ひと段落ついた女性は窓辺に行って、日が暮れていく空と雲の色を確認すると、「次は夕焼けのようなグラデーションのスマホケースをデコレーションしようかな」と思いついて、さらに暗くなる空に合わせて音楽をゆったりと落ち着いた曲に変えたんです。
すると、先ほどまで作業に熱中していたために高速回転していた頭もリラックスモードになっていくので、それまでよりもペースを落として、先ほどの苺のショートケーキの続きをデコレーションしていくと、生クリームを模したシリコンを触ってみたくなってその弾力を確かめたり、整列したピーズのデコボコの感触を感じたくて表面を撫でてみたりします。
やがて、手で触って作品を確かめて、「もうこれ以上いじるところはないな」と感じた時に手を止めて、遠目でその出来具合を確認してみたんです。
それから、パーツが剥がれないことを確かめて、仕上がったスマホケースを自分のスマホに装着してみると、なんだか自分まで新しく生まれ変わったような気がして、全く同じスマホなのになんだか全然違う新しいスマホのような感じがうれしくて、着信音を鳴らしてみたり、文字を打ってみたり、誰かに電話を掛けてみたんです。
そして、呼び出し音が耳のそばで鳴る音を何度か聞いた後に、「ああ、この人は今電話に出れないのか」と思ったので呼び出し音を切って、「まあ、電話を掛けることもないか」と思ったので、スマホをテーブルの上に置いて、夜風に当たるために窓に近づいたんです。
すると、夜空にはたくさんの星が瞬いていて、「私は夜空を見上げたのはいつぶりだろう」とそんなことを思って、しばらく星の瞬きに見惚れていました。
そうやって、どれぐらい眺めていたのか分かりませんが、ふいに着信音が鳴って現実に引き戻された時に、「誰だ!こんな時間に!」と思ってスマホの画面を見てみると、それはさっき私が電話を掛けた相手だったんです。
そして、特に用もないのに掛けた相手が折り返し電話をくれたことをうれしく思って、彼には見えないけれどとっておきの笑顔で、そして明るい声で電話に出ると、耳元に当たるスマホの画面がその人の体温のようで、なんだかあの感情が私の胸を熱くしていくのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
コメント