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母親の望む姿で生きる苦しみ

ひとりごと
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昨日の読書会は参加者が0人だったため、中止になりました。
いや~やっぱり間口は広い方がいろんな方に来ていただけるもんですね。
ちょっとまた考え直します!

あと、日曜日のお昼間だと都合が合わない方も多いようで、読書会参加希望の方と日時調整していけたらと思っています。

あの日時の理由は前回読書会の記事の時に書いていましたが、自分の仕事が週6日で20時まであることと、彼氏が突然関西出張になって会うことになるので、そう考えた時に日曜の昼間しか予定変更の可能性が少ない時間ってないんですよ。

なかなか難しいものです~。
一応、今のところまだDiscordメインで読書会を開きますので、ご参加お待ちしております。

さて、近ごろ大雨が降ったと思ったら止んだり、天気が不安定ですね。

急な土砂降りで散歩に行こうと思っていたのに行けなくなったり、晴れ予報だったから洗濯しようとしてたのに出来なくなったり、自然の現象っていうのは100%はないし予測できません。

「未来を100%当てられる!」占いというのは、古代から大事にされてきたのではないでしょうか。

「占い」というとアレルギーな方もたくさんいらっしゃるかと思いますが、なぜ科学的根拠がないのにここまで人気が廃れないのかと言ったら、

①特別な才能を持っている自分に酔えること(占い師側です。以前の私はこれでした)
②予測不可能な未来を見て楽して生きたいこと

この2つではないでしょうか?
(完全に私の独断と偏見です。ちなみに私は占い師です)

なぜ「特別な自分」と周囲に思われたいのかというと、私の場合は「幼少期のトラウマ」と「母親のダブルバインド」でしょう。

幼少期のトラウマというのは、私は小さい頃友達が少なく(廃校寸前の田舎だったというのもありますが…ちなみに10年前に廃校になりました)、自分の心を許せる人間関係がなかったから。

だから、イマジナリーフレンドではありませんが、「占いができる特別な自分」に酔って自分を奮い立たせていたところはあります。

誰も見てくれないから、自分でそう思い込もうとしてたというか…。

しかし、実際に他者からの評価を得られないと、いくら自分で「特別」だと思っていてもただの妄想です。

私はコミュニケーションを家族間で取って来なかったのもあり、ほぼ絶望的なコミュ力でした。

今でこそ自分の主張したいことは主張できるようになりましたが、当時の「人を信じない」というトラウマはなかなか取れず、今に至るまで人の言葉を信じられずに疑っていたものだから、しんどくて仕方ありませんでした。

疑えば相手にボロが出るわけでもなく、疑えば自分が正義となれるわけでもなく、疑う心というのはどんどん自分の心を蝕んでいきます。

だから、どんどん人のことが信じられなくなって、みんな嘘を言っているような気持ちになって、ますます幻想の世界に逃げ込むのです。

幻想の世界の中では、私は「特別な神のような存在」です。

みんなから崇められて、世界中のすべての人に愛される存在である。

だけど現実は、私のまわりには誰もいなくて、いたとしても自分を罵ってくる存在か利用して搾取してくる存在しかいませんでした。

②は、「先のことが分かって安心したい」という気持ちが強かったかもしれません。

いつも将来の不安を抱えて絶望的な気持ちが心の中にあったので、それを拭いたかったけれど人に話したところで心の闇は拭えない。

じゃあ、どうしたら私の心の重りというか心がギュッと締め付けれるような罪悪感というのが取れるのかというと、「死ぬことでしか楽になれない」と思っていました。

生きていても存在していても、この先良いことがないなら、今死んでも一緒じゃない?

そう思ってゾンビのように毎日をなんとなく過ごしていたのですが、もし10年後の未来が分かって「今の自分からは考えられないような輝かしい生活を送っている!」と知ることができれば、今の辛さを我慢し甲斐がある…と思っていたのです。

「何のために努力しているの?」と聞かれたら、その当時の私はきっと「分からない」と答えたと思います。

誰のために幸せになろうとしているのか、誰に愛されたいのか?というのは、今なら「母親のためでしょ」って分かるけれど、その当時母親も激病みしていてどこにも頼れなかった私にとって、「なんとかこの地獄から逃れたい!」と必死の思いでした。

母親と離れて暮らしていたのに、母親の影響がとても強かったのは不思議ですが、母親こそ私に助けてもらいたかったのかもしれません。

母親も、私と同じように誰にも悩みを相談できず、一人家でヒステリックになっていたわけなので、それを私が「何かあったん?」って聞いてあげられたら良かったのかもしれないけれど、多分怒って母親と距離を開けて正解だったのかもしれない。

「支配」というのは幾重にもかけられている呪縛のようで、何度引きちぎってもまだ残骸が残っています。

その残骸を殲滅しようとすればするほど、現在の私の人間関係に大きな穴が開いたりします。

これはクライアントさんから聞いたお話なのですが、「FAP療法をするとトラウマの再上演が起こった」と。

そのまますんなりトラウマがなくなれば良いのに、最後っ屁みたいな感じで強烈なのをかましてからやがてトラウマは去っていきます。

なぜ、トラウマを取るとトラウマの再上演が起こるのかというのを私の心に聞いてみると、心は「あなたが生きていくための強さの証明になるから」と答えてきます。

それまでの人生、苦しい中を生き抜いてきた自分をもうこれ以上苦しめないで!と思うのだけれど、心は「すんなりいつの間にか治るトラウマもあれば、あなたのように苦しんでトラウマから脱却する人もいる。なぜならそれは、そのトラウマを認識していたか否かで変わるから」と言うのです。

たしかに、私は「人付き合いが苦手」で「人に醜い部分ばかり見せてしまう」という習性がありました。

「そんなんじゃないよー!」と相手の中の自分のイメージを地に叩きつけていくのです。

私のイメージが神に近ければ近いほど、イメージをスラム街の死神ぐらいまでに落としていきます。

それが①ですね。

「特別な存在」になりたいはずなのに「特別な存在」になれない私は、一生母親の鳥かごの中で過ごすようにプログラムされていたのです。

大嶋先生の本やブログを読んで、「褒められたら素直に喜ぶ」ということを学びました。

自分の中の習性というのはなかなか変えられませんが、幸いにも私は毎日多くの人と話す機会がありました。

母親が望む私の姿は、誰の目にも止まらない醜い存在だったのかもしれない。
なぜなら、母親が唯一の神であり、私はその母親の世界でのみしか生きていけないから。

母親の世界の中で生きる私は、苦しみと辛さと恥しかなくて、人前に出ては失敗をしていました。

そう、母親の世界を出る時に苦痛を感じることこそが、きっと「トラウマの再上演」。

トラウマの再上演が起こって苦痛を味わった時、「やっぱり母親の胎内の方が居心地が良い~」「外の世界はこわ~い!」と戻っちゃうと、また原因不明の怒りに憑りつかれたりしなければなりません。

母親は常に私の世界を監視し、私に「幸せを与えられるのは自分だけだ」とアピールしてきます。

昨年、大きなトラウマをセルフFAPでたくさん取りました。
年齢退行セルフFAPも4周ほどしましたが、それでも大きなものは取り切れずに残っていました。

人は、何かに迷った時にどこに帰るかで、自分の居場所が決まっていくのかもしれません。

不快な態度を取る母親を捨てた時、私の世界の居心地の良さは、「母親がいない夕暮れの部屋」でした。

もうあの夕暮れを母親とともに見れないのか…と寂しさが広がると同時に、次に朝陽が昇る自分の部屋の窓辺をイメージしてみると、「なんだかきっと良いことが起こる」そんな気持ちになってくるのです。
(ナラティブです)

 

本日のメタファー:レインボーの魚

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