炊飯器でお米を炊く時、私は象印の「炊きあがりました~」というあの音楽が好きで、いつも象印の物を購入して使っています。
だけど、最近は滅多にお米を炊かなくなりました。
前から薄々気づいていたんですが、お米苦手なんです。
嫌いとかではなく、もしかしたら自分で炊くお米(炊飯器のお米)が苦手なのかもしれません。
なので、土鍋はまだ持っていないので、フライパンで炊いたりスキレットで炊いたりしていました。
そしたら美味しく頂けるんですよ。
同じような理由でかは分かりませんが、私は小学生の頃カップラーメンが大の苦手でした。
「発砲スチロールの味がする!」と当時は思っていたのですが、大人になってから改めて食べてみると「美味しい」と感じる自分がいたのです。
友達にこのようなことを言うと「舌が肥えてる」とか「贅沢」とか言われます。
自分ではそんなに贅沢を言っているつもりはなかったのですが、何でも高級志向な自分に気づいたのはそのさらに数年後です。
高級なものや質が良い物が好きなのですが、だけど以前の片づけられない汚部屋だったらどれだけ高級なものでも一瞬で汚物と化していました。
なぜなら、部屋は埃だらけで床に物を置くから、知らぬ間に踏んでしまって大切な物を壊したりも何度もしていました。
その時は嘆き悲しむのだけれど喉元過ぎれば何とやらで、やっぱり楽な方に流されてしまいます。
どうしたら人波にちゃんと生活ができるのか?
私は家(間取りやインテリア)が好きで、部屋の本をたくさん持っていました。
海外のアパルトマンとか海外の子供部屋とか…休日はIKEAに行き、仕事終わりには必ず用もないのに無印良品に行き、そして家では無印良品のCDを流す生活。
だけど、「きれい」に憧れはあるものの、どうして自分は「きれい」を保てないのかが長年の悩みでした。
そこで、「快・不快コード」で自分の快感と不快感を整理してみます。
「私は物が多い部屋を不快と感じる?」という不快感が自分の中で出てきました。
でも、どれを捨てれば良いのか分からないし、過去に大量に捨ててものすごく後悔したことがあるから捨てるのが怖い…となっていました。
いくら中指ビンゴや心に聞いたりしても、どうしても捨てられない物ってありますよね。
それで、「捨てられない物」が目の前に出てきた時に「どうしたら良いのか分からない!」となって掃除が中断してしまします。
大嶋信頼先生の初期の本に『サクセス・セラピー』という本があります。
すでに絶版になっているのですが、この本の中に「自分の不快感に浸る」方法が書かれています。
「不快だな」と思う出来事に浸ってみて、「不快」を感じながら「じゃあ、自分はどうしたいの?」と自問自答してみます。
すると「物が多い部屋」を片付けるのに「きれいな物と汚い物を整理する」という答が自分の中から湧き出てきました。
「お、これならできるかも!」と思うわけです。
『片づけられない自分が今すぐ変わる本』に書いてありましたが、意識で考えると混乱してきます。
つまり、「これは必要なの?必要じゃないの?」「まだ使うの?もう使わないの?」という必要性=意識で考えると、それを残してどれを捨てれば良いのかが分からなくなってくるのです。
だけど、本音では「これは汚いからもう要らない」とか「これはずっとここにあるけど一回も使ってないから邪魔」とか考えて「不要」だという答を右脳が判断して出しているわけなのです。
なのに、左脳で考えて「いや、まだいつか使うかもしれないし…」と思って取っておくと、それを見るたびにチクチク嫌な感覚が自分の中に蓄積していくのを感じるわけです。
中指ビンゴや心に聞くでも十分、捨てる物と捨てられない物を仕分けすることができると思います。
だけど、長年「物を溜め込んで捨てられない性質(ホールディング障害かな?)」を解決するのに何度もセルフFAPをやって催眠スクリプトを読んでも解決しなかったのに、いや、もしかしたらそれをやってきたから自分の快・不快コードが分かって必要な物と必要でない物の区別がつくようになったのかもしれません。
そうやって自分の感情に正直になっていくことで、人間関係も仕事も生活も楽に自分のやりたいことだけに専念していける環境を作っていけるのでしょう。
「やりたくないことをやめる」というのはとても勇気がいる決断だと思います。
しかし、やりたくないことをしている自分の脳がどれだけストレスでダメージを受けていたのか、今の自分になら分かります。
簡単な話を理解したり覚えたりすることもできず、本当に「知能が下がっている!」という感覚がありました。
「こんな自分は自分ではない!」と思った時こそ、自分の快のみを求めて行動し、本来の自分に戻っていくチャンスなのかもしれませんね。
本日のメタファー:炊飯器
――――――
『片づけられない自分がいますぐ変わる本』のレビューはこちらから→☆
コメント