阪神淡路大震災の時、私は小学生でした。
明け方の大きな揺れで目が覚めたのですが、今まで大きな地震を経験したことがなかったので体が固まったまま動けませんでした。
私の寝ているベッド脇には大きくて重い本棚があって、その中にぎっしりと本が収納されていたので、それが倒れてきたら潰れてしまいます。
だけど、ベッドの下に隠れることもできずにいました。
奈良県は震度4でした。
私と母は大きな揺れで目覚めたのですが、妹と父は最初から最後まで寝ていて、結局起きませんでした。
あんなに揺れたのによく寝れるなあ!と思ったものですが、実は最近の私も地震に気づかなくなってしまいました。
それが良いことなのか悪いことなのかは分かりません。
本当に大きな揺れだと流石に気づくと思うのですが、FAP療法をする前は震度1のわずかな揺れでも「え…今、揺れたよね?」と気づいていたのに。
家具も何も揺れていないのに、すぐに察することができていたのです。
しかし、最近の私は震度1や2ぐらいでは全く気づかず、窓を閉めているのに家のペンダントライトが揺れているから「え…ポルターガイスト!?」と思ってビビッていたぐらいです。
そう、心の傷を治療することで鈍感になりました。
FAP療法でトラウマを取る前は全方位に注意が向いてしまっていたので、感覚過敏でちょっとした物音が原因で注意散漫になってしまっていました。
たとえば、読書をしようと思っても、家の外を救急車が通ったらサイレンの音に注意を持っていかれるので、音が気になって文字に集中できません。
さおだけ屋が通ったら、完全に「さおだけ~」の音が聞こえなくなるまで待っているから、なんだか時間を奪われた気分になってイライラしていた。
だから完璧に無音の状態でないと読書できないと神経質になっていて、さらに「完璧な無音状態を維持できなかったら…」と本を開く前から心配になるので、そもそも読書をすることが億劫になっていました。
それが心の傷を取っていってどんどん鈍感になっていくと、知能が元に戻って集中力を発揮できるようになったのです。
なぜなら感覚過敏は緊張からきていたので、自分にとって必要な情報だけを取捨選択できるようになったから。
感覚過敏がなくなっていくと、今必要な情報だけを選択できるから、潜在意識も変わって「これが元の自分なんだ!」というところに落ち着くことができるようになる。
「元の自分の感覚」ってどうやって分かるの?と疑問に思われる方もいるかもしれませんが、元の自分の感覚に戻った時に「これだ!」と思うから大丈夫。
私は、自分の過敏な感覚をある意味誇りに思っていました。
だけど、鈍感になってのんびりと生きている自分の心地良さのほうが「私らしい」と思えている。
「私」ってなんなんだと思うけれど、それもきっと私が決めて良い。
トラウマがなくなるとたしかに自分の能力の一部を失うような感覚になるかもしれないけれど、その失った能力の2倍も3倍もすごい無限大の力を持っているのが「本来の自分」だと思っています。
鈍感な人生も悪くないです。
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