「苦しくないと、仕事をしていると思えないんです」とある人が仰った。
たとえば、楽しくてラクに稼げると急に罪悪感が湧いてきて、それまで上手く仕事と距離を取りながら働いていたのに、働き過ぎてしまったり、不快なことを頑張ってしまったりするそうなんです。
だから、この苦しさを取れば、何かが変わるんじゃないかな、とその人は仰います。
そして、私はその人のために、ある絵筆の話をするのです。
そう、実はその人の家にはたくさんの絵筆があって、筆先が細いものや太いもの、短い絵筆や長い絵筆、平たい絵筆や丸いで絵筆など、数え切れないぐらいたくさんの絵筆があるんです。
そして、その絵筆のどれにも絵の具がついたままになっていて、描きかけのパレットと一緒に無造作にそこらへんに置かれていて、それが窓を開けた時にカタカタと机の上で揺れるので、「落ちるかな?落ちないかな?」とちょっと気になったりします。
それから、その人は休日になるとその描きかけの絵の具がついた絵筆を手に取って、まっ白いキャンバスに絵を描くのですが、何を描くかはまったく決めていなくて、筆を持った時にピンときた色や線をキャンバスに勢いよく絵の具を乗せるようにぐいんと描くので、筆を持つ力加減や画用紙に色を乗せる時の筆圧が心地良く感じられます。
そして、最初の1本の線を引くと他の色も自然と決まっていくので、その人は他の人にない自分の中に広がる感覚を色に乗せるように、独特な色の組み合わせで絵を描いていって、仕上がった絵は本人にも予想できないような斬新で鮮やかな色合いになるので、自分自身も「どんな絵になるのかな?」と完成が待ち遠しくて、キャンバスに赤や青や白の絵の具をどんどん重ねていくのです。
すると、他の色と他の色が混ざり合ったり、色の上に色が乗ったりして滲むので、その人はまたその上に色を重ねていって、そのたびに筆洗に筆をつけて水の中でじゃぶじゃぶと筆を洗います。
そうして、みるみるうちに筆洗の水が灰色や赤色に染まってマーブル状になっていき、しかしそれもまた1つの絵のように美しく思えるので、筆を洗ったままのこの水で絵を描けないかなあなんて思いながら、今度はもっと細く小さい筆に持ち替えます。
そうやって、器用にいろんな細さや太さの筆を持ち替えながら、さっき塗った色の反対色の色を塗っていくと、プラスチックの白いパレットがどんどんいろんな色で鮮やかに彩られていきます。
やがて、元々白かったパレットは花畑のようにいろんな色で埋め尽くされて、もう新しい色を作る場所がなくなってしまうと、その人は色を作ることやパレットに絵の具を出すことをやめて、自分の手に絵の具をたっぷりと出すと、キャンバスの上に指や掌をこすりつけて色をつけ始めるので、筆で描いていた時とは違うザリザリとした音が聞こえてきます・
そして、何度も何度も紙に指や掌をこすりつけていると、だんだん画用紙がこすれて薄くなってきているような、そうではないような気がしてきますが、キャンバスに白い部分が残らないように、画用紙のザリザリ感をまっ平にするような感じで、さらに濃く鮮やかに色を塗り重ねていきます。
そうして、出来上がった作品を窓から入る日にかざして見ると、部屋の電気の下で見た時とはまた違った色合いに見えるようで、新鮮な気持ちになると、もっともっと自分の作品が好きになってくるような気がするんです。
それから、できた作品を、部屋の中の薄暗い壁際に立てかけて乾かすのですが、その間に私もシャワーを浴びようと思って浴室へ行き、ザーッと熱いお湯で髪を洗うと、浴室に響く水の音に心の中の何かも洗い流されてさっぱりしていくような感覚があります。
さらに、まだお昼なので湯舟には浸からず体だけ洗って浴室を出ると、ふかふかのまっ白なタオルで髪や頭を拭いて、それからドライヤーで髪を乾かすのですが、ドライヤーをつけるとドライヤーの音しか聞こえなくなるので、私は髪を乾かしているその時間が1日の内でとくに好きなんです。
やがて、髪は熱風であたたくやわらかく乾いて、洗い立ての部屋着を着ると、先ほど壁に立てかけて乾かしていた絵の様子を見に行こうと思ったんです。
そして、その絵の乾き具合を確認すると「まだもう少し掛かるな」と思ったので、その間に、ずっと絵に夢中になって洗うのを忘れていた絵筆やパレットを洗ってしまおうと思って、机の上を片付け始めました。
すると、「机の上ってこんなに広かったんだ!」と思うぐらいサッパリしたので、次に絵筆やパレットについた絵の具を洗い流そうと、蛇口から勢いよくジャーッと水を出して濡らしていきます。
そうやって、固くなった絵の具を水でほぐしていくと、絵筆やパレットの本来の色が見えてきたので、なんだかうれしくなってきて、もっともっと汚れを落とそう!と思って、冷たい水の中に何度も画材道具をくぐらせていきます。
そして、すっかりこびりついた絵の具が落ちた時、絵の具が固まってくっついている絵筆やパレットも芸術的でなんだか素敵だったのですが、その人は休日しか絵を描かないし画家ではないので、やっぱりきれいにしてきちんと保管している方がなんだか気持ち良いかもしれない、と思って、ガラス扉がついた棚の中へ順番に道具を整列させて並べていきます。
そして、その棚は部屋の中でも日の当たらない薄暗い一角にあるので、普段はあまり目に入らなくて忘れているのですが、その棚の中にはその人が好きなものがたくさんたくさん並べられているので、一週間の終わりの休日ごとにその棚の中を開けて「今日は何をしようかな?」とアイテムを選ぶのが楽しくて、ある時は蓄音機を取り出してお気に入りのレコードをかけたり、レコードと一緒にトランペットを演奏したりするんです。
それから、休日の夜になるとまた棚の中へそうっとお気に入りのアイテムをきれいに並べて置いて、また次の休日が来るまで棚の扉をそうっと閉めて、そして忘れておくので、休日の寝る前にその棚を閉める時の取っ手を持つ手の感触がなんだか名残おしてくて、それでも晴れた日の夜にも嵐の日の夜にも素敵な夢を見れるように、その棚をそうっと閉めるのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
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