母親が大切にしていたものは、私にとっても宝物でした。
たとえば、『ポーの一族』とか陶器のペンダントとか、そういったものです。
小学生の頃、母親にもらった陶器のペンダントを肌身離さずつけていたのですが、家族で大台ケ原へ登山に行った時に落としてしまったみたいで、ものすごく落ち込みました。
母親からもらったものは大切にしようとしていたし、母親が好きなものは私の好きなものでもありました。
母が、「セルリアンブルーが好き」だと言えば、私も空のそうな爽やかな青が好きだったし、逆に母が嫌いなものは私にとっても敵でした。
無自覚に母親の影響を受けていたものもあります。
今の私の家には観葉植物と陶器の食器類が多いのですが、母親の支配から抜け出られそうな時に立て続けに観葉植物が枯れたり、陶器のお皿をダメにしてしまっていました。
あまりにショックだったので、「心よ!どうして私は植物やお皿を大事にできないの?」と聞いてみると、心に「それは母親が好きなものだから」と言われてさらにガーン!となりました(笑)
え?今まで自分で「これが好き!」だと思って選んできたはずだったのに、ぜんぶ母親基準だったってこと?と不安になりました。
でも、そうではなくて、大切なものを壊してしまった時に「私がズボラだからちゃんと管理できていないんだ…」と自分を責めるのではなく、「それ、母親を捨てる練習じゃない?」と気づいてみるんです。
数年前にエジプトガラスの香水瓶を集めていたのですが、この香水瓶も現在はほとんど割ってしまいました。
あれだけ大切に扱っていたのに、壊れる時はあっけなく壊れます。
20代の時に一人暮ししていた際、毎日お弁当を作って職場に行っているのを知ってか、母親が機能性の高いかわいいお弁当箱をプレゼントしてくれました。
それも、ズボラな私はIHの熱くなった場所に置いて溶かしてしまいました。
「なんで私は自分の大切なものをすぐに壊してしまうんだろう…」と自分に腹が立って仕方なかった。
でも、もしかしたら私が破壊してなくしてしまったものたちは、母親基準で選んでいたものなのかもしれない。
自分にとって、実は必要がないものたちだったのかもしれない。
だから今からでも、自分が本当に好きだと思うものを探しに行こうと思ったんだ。
好きな人も大切にしていた物も、私の元から離れていってしまったものたちは、もうお役目を終えたのかもしれない。
ただ、私の家には未だに観葉植物は多いし、食器は陶器のものを使っています。
母親の影響で植物も陶器の器も好きになったのかもしれないけれど、「あ、これが母親の影響だったんだ!」と気づいた時、私の中で“本当に好きなもの”に変わったんです。
今度は母親基準ではなく、「私が好きだから、これを選んでいる」と堂々と言える。
私の中の母親が「壊してはいけない大切なもの」から、「母親の意志を受け継いで、自分らしく生きる」ために生まれ変わったように。
母親にがんじがらめになって、母親のことで怒ったり喜んだりするのではなく、母親の好きなものや嫌いなものを知った上で母親を尊敬してみると、また違った風景が見えるかもしれない。
「私を愛してほしい」から「私は十分に愛されてきた」と認める時って、案外こんなことが起こっているのかもしれません。
そしてそれは、今までの自分が間違っていたのではなく、今まで守ってきてくれた「母親が好きだったもの」の役目が終わったということ。
FAP療法を受けていって気づいたことなのですが、私が「捨てられない!」と思っていたのは、母親からもらったものでした。
CDや小物やクッションやなんやかんや、もしかしたら母親は愛情表現のつもりでたくさん私に物を贈っていたのかもしれません。
でも、CDも踏んで割ってしまったし(大切にしていたつもりなのですが、当時は足の踏み場がない汚部屋に住んでいたので…)、その他のものもすぐダメにしてしまっていました。
だけど、今思えば、使えば使うほど、物って劣化していきますよね。
愛用しているものほど出掛ける際に必ず持って行ったり、家で毎日使っていたり。
もしかしたら、私が「大切にしようと思っていたのに壊してしまった…」とショックを受けていたものたちは、私なりに愛情を持って使っていたから、ダメになるのが早かっただけなのかもしれない。
私の中では「一生壊さず使い続ける」のが愛であり、大切にしている証拠だと考えていたのだろうけれど、物も人も植物も年月とともに変わっていきます。
一生変わらないものは何もない。
私は観葉植物を育て始めた頃、植物の葉が枯れただけで「枯らしてしまった…自分の育て方が悪かったんだ」と自分を責めていました。
しかし、植物が枯れて新しい芽が出るというのは新陳代謝と同じ成長のサイクルなんですよね。
ずっと同じでいる方が難しい。
自分も、他人も。
だから何かが壊れて、その時は「悲しい…」と思うかもしれないけれど、それは自分が成長するための成長痛でもあると思っています。
何か痛みに出会った時、そこには新しい自分となる芽が出ているのかもしれない。
そう思ってみると、今まで捨てられずにしがみついていたものが、新しいものを迎える準備として手放せるような気がするのです。
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