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人に嫌われるのが怖い人のためのスクリプト

催眠スクリプト
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ある暑い夏の午後に、山奥のかき氷屋さんを訪れました。

そのかき氷屋さんの軒先には「氷」とピンク色の文字で書かれた暖簾がぶら下がっています。
そして、かき氷屋さんのすぐ横には透き通った小さな小川がちょろちょろと涼し気な音を立てて流れています。

それを横目に、私は暖簾をくぐって中に入ると、元気良い女将さんの声が聞こえてきて、さっきまで太陽の熱でほてって弱っていた体がみるみる元気を取り戻していくようでした。

それから、女将さんが案内してくれた席へ私は下駄を鳴らしながら歩いていくと、先にかき氷を頬張っていた男の子が私の方をちらちらと見てくる様子が目の端に写ります。

すると男の子は、私の下駄が珍しいのかかき氷を食べる手を止めて、食い入るように私の下駄を見るので、私は男の子の前を通る時にわざと歩くスピードを落としたので、下駄が床を鳴らす音もゆっくりと丁寧響きます。

そして、案内された席に腰を下ろすと、目に見えないいろんなものも一緒に軽くなっていくようなそんな感覚を感じます。

さて、私が座っているのは窓際の席で、私の後ろには横長の嵌め殺しの窓があって、窓の向こうには一面緑が広がっています。

さらに窓の外を眺めていると、外の音が聞こえないはずなのに新緑の木々が揺れる音や近くの小川が流れる音が聞こえてくるようです。

そうやってぼーっと窓の外の若々しい森の姿を眺めていると、注文したかき氷がテーブルに届いて、そのひんやりとした空気でますます私の熱のこもった体が元気を取り戻していくようでした。

そんな時にふと視線を感じてかき氷から目を上げると、先ほどの男の子が自分の席から振り返って私を見ている姿が目に入りました。

きっと男の子は私の下駄が気になっているのでしょう、何かを探すように私の周りに視線をやると、彼のお母さんが「こら!」と小さく嗜める声が聞こえてきました。

けれど、私にはそんな風景も休日ののどかな風景であって、窓の外の緑と同じように、お母さんの窘められてれている好奇心旺盛な男の子も私の人生を彩る色彩の1つであって、今目の前にあるいちご味のかき氷と同じように、美しい思い出の1つなのです。

だからなのか、そうではないのか、私が大きな口を開けて真っ赤に染まった氷を食べようとすると、男の子はお母さんの言ったことも忘れたように、キラキラとした目で私の顔を眺めるのです。

そんな男の子を見ていると、「あなたもさっき同じように大きなかき氷を食べたばっかりでしょ!」と思うのだけれど、あの男の子のキラキラした視線を受けて、私はまるで女優のように、スプーンを持つ手や口に運ぶ仕草、スプーンがかき氷のお皿に当たるカチャンという音にまで上品さを宿すように、1つ1つの動作を丁寧にゆっくりと意識します。

そしてそれは、かき氷屋さんには自分と男の子以外にたくさんの大人や子供がいるのに、まるで私と男の子しか今この空間に存在しないように切り取られたような静けさが私たちの間には流れていて、その静けさは音ではなく、時間の流れがゆったりと止まるように流れているからのようなのです。

しかし、このゆったりとした空間を元の時間間隔に戻したのは男の子のお母さんで、ソファから振り返って通路に身を乗り出している男の子の肩を叩いて、男の子を前に向かせようとしたのです。

なので私の周りにも音が戻ってきて、かき氷屋さんの中のがやがやとした話し声が一気に耳になだれ込んで戻ってきました。

すると、私の時間(とき)も動き出したので、私はいつもの速度で氷を口へ運んでいくので、何口か食べたところでキーン!と頭が痛くなりました。

そうして一気に氷を食べたことでキーンとする頭をおさえるように俯いて、眉間を手で押さえると、ぎゅっと固く瞼を瞑りました。

こうすることで早くキーンが治まるのではないかとじっとしていると、周囲の話し声がどんどんクリアに聞こえてくるようです。

だから、その内に頭のキーンとする感覚よりも、隣の人が何を話して笑っているのかが気になるようになってきて、注意深く話を盗み聞こうとするのだけれど、肝心なところで別の席の人の大きな笑い声が被ってしまって聞こえません。

けれど、いつまでもこうしているとまだお皿に残っているかき氷がただの甘い水になってしまうので、再び目を開けてスプーンを手に持ちます。

そして、その時にあの男の子とその家族がもうこのかき氷屋さんを去ったことが分かって、私の中で1つの声がぽっかりと空いたような気がしたのですが、それもまた他の誰かのざわざわする話し声で埋められていきます。

それから残りのかき氷を食べ終わって、お会計のために伝票を持って立ち上がるとすぐに店員さんがレジに駆けつけてくれるのが見えて、その後ろの嵌め殺しの窓の緑に一瞬心を奪われます。

なぜなら、さきほどまではいろんな人の声に囲まれて、目の前にあるかき氷が美味しくて忘れていたのだけれど、窓から見える一面の新緑はとても見事で、まるで絵画のようです。

もし、私が絵を描くなら、キャンバスいっぱいに緑の葉っぱを描くかもしれないと思うし、その葉っぱは1枚1枚を違う「緑」で描きたいし、その葉っぱ同士が風で揺れて擦れ合う音までも聞こえるような生命を感じられたらなあとイメージします。

でも、実際に私にはそんな画力はないので、今目の前にある「緑」を見た感動を絵で表現することは難しいかもしれないと思ったり思わなかったりするのですが、その「緑」を見た時の感動は私の中から消えるわけではありません。

だから私は、このかき氷屋さんを出てまた瞼をゆっくり閉じた時に、その瞼の裏にこの素晴らしい風景を思い描けるのではないだろうか、と少しわくわくするのです。

そして、瞼を閉じた時に聞こえてくるいろんな音は、私の360度ぐるりと周囲を取り囲んで、立体的に私を形作るように私の中に流れ込んできます。

すると、私の中に何かが芽吹く感覚があって、この感動を文章や絵や写真で表現したいなあとうずうずしてきます。

そうやって私が感じたものを目に見える形で表現できるとしたら、私はどんなものを使って、どんな形にするだろうか。

そしてそれは、目に見えたそのままの形にするのだろうか、それとも目に見えない音楽や触覚で表すのだろうか。

そんなことを考えながら、しばし私は透き通った小川の流れる音だけを頼りに、山を下っていく不自由さを楽しむのです。

 

ひとつ、爽やかな空気が頭に流れてきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなってきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。

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