PR
スポンサーリンク

極端な快の裏側にある呪いの暗示。

ひとりごと
スポンサーリンク

「紅茶」というと真っ先に思い浮かんでくるのは、アリスのティーパーティーのマッドハッターです。
幼い頃はマッドハッターにものすごい憧れがありました。

きっと狂ったところが天才的に見えて、「あんなカリスマになりたいなあ」と思っていたのかもしれません。
でも、実際マッドハッターのような人がそばにいたら、イライラするんじゃないかなあと思っています。

そこで、私の幼い頃の憧れの人というのは所謂「ぶっ飛んだ人」が多かったんです。

奇想天外であるとか、非常に行動力があってちょっと空気が読めないとか、天然ボケが行き過ぎていて周囲がついていけなくなるような人物です。

このような「変な人」が私の憧れの人だったのですが、これを呪いの暗示とバランスを取るための「極端な快」とした時に、「あ、そうか。平凡で何の取り柄もない自分というのが呪いの暗示だったのか」と気づきます。

何か偉業を成し遂げなくても、とにかく周囲に溶け込みたくなかったのは「変わり者の天才肌」だと思われたかったから。

だけど、それは裏を返せば「平凡で何の取り柄もないのに、なぜか周囲に馴染めない自分」の苦悩だったんです。

「どうして私はみんなと同じように会話に参加できないんだろう」と思っていたし、「どうして私の相槌や笑顔はぎこちなく引きつっているんだろう」と思って、そんな自分を惨めに思っていました。

上手く笑いたくて笑顔の練習をしていたけれど、不細工な自分がニコッとしたって気持ち悪いだけ!と自己否定の気持ちが止まらないんです。

では、どうして、いつから私は「平凡で何の取り柄もない自分」という呪いの暗示に掛かったのだろう?と考えてみます。
(本来は別に考えなくても良いと思います)

すると出てきたのは「母親に褒めてもらえないから、もっと人と違った目立った行動をしないと!」と焦っていたのです。

そして一周回って「痛い人」になってしまっていました。

そんな黒歴史がある私ですが今の自分が正反対で、なるべく目立たないように、なるべく変なことをしないようにと自分自身に願っています。

なぜだろうか?トラウマを取ったからだろうか?と思うけれど、「目立たない平凡な自分」を極端な快だと仮定して「呪いの暗示」を探ってみると、「自分の才を隠す」自分が思い浮かんできます。

自分の能力を出してしまって叩かれるのが怖いし、人とどこか違うと認めてしまうと自分の居場所がどこか分からなくなってしまうようで怖い感覚。

じゃあ、いつからこの「極端な快」と「呪いの暗示」が「目立ちたい」から「目立ちたくない」に変化していったのだろうか?

そう思ってさらに深層を探ってみることにしました。

すると出てきたのは「母親の支配から抜け出るためには秀でてはいけない」という自分の中の教訓だったのです。

きっと努力して努力して人よりも秀でたことをしてみても、母親は納得しないし文句しか行ってこない。
そして、私を心配するふりをして新たな呪いの暗示を掛けてきます。

「そんなことして本当に大丈夫?」と。

そんな母親に振り回されて極端から極端へと知らぬ間に自分を変化させてきたのです。

それなら「心よ、私はどうしたらいいの?本来の私とは?」と聞いてみると、心はおだやかな声で「本来のあなたは決して誰から認められることがなくても、そこに流れる静かな時に身を任せて風を感じられる人」と言います。

「心よ、“風”とは何?」と聞いてみると、心は「風はあなたの心で巻き起こる興味関心や意欲。それが自然と湧き出てくるままに行動することで、あなたはあなたらしく、誰にも影響されない人生を送れるかも」と言ってきます。

ああ、私は自分の好奇心に任せて行動をしていいし、空気を読み過ぎて他人を優先し過ぎなくても良いんだ…と気づくのです。

「心よ、でもそうなると、自己中になってしまわない?」と心に聞いてみると、心は「そうですね、もしあなたが“自己中”だと気になる時は、誰から流し込まれた感覚なのか確認する必要があります」と言ってくれます。

自己犠牲をして他人の感覚に寄り添わなくても、あなたは自分の好きなことをしても良いし、それが誰にも認められなかったとしても、そこに自分の「楽しい!」があれば、それはあなたが本当に求めているものかもしれないです。

本日のメタファー:紅茶、ウサギ、橋

コメント

タイトルとURLをコピーしました