小学生の頃、自分は運動音痴だと思っていました。
しかし、中学・高校と周りの反応を見て、自分が運動ができる方だということを知りました。
「運動ができない」というのは意識的判断で、運動ができない自分は幻想であったということです。
別の話になりますが、私は物にぶつかったりドアや壁にぶつかったりすることが頻繁だで、自分の体と周囲の距離感を上手く把握できていませんでした。
こういった「間違った」認識とはどのように作られているのか?
この場合の「運動ができない私」というのは、知能と同じ相対的なものです。
だから、自分自身の「私は〇〇である」という認識を変えるなら、所属している集団を変えれば良い。
なぜなら、「私は〇〇なんだ…」と思って落ち込んでいるような時って、2:6:2の法則の下の2割になっているから。
所属している集団を変えることで、下の2割から上の2割へと変わることができます。
でも、これって周囲の私に対するイメージが変わるから、自分のセルイメージが変わるんじゃないの?と思ったりもするんです。
実は「自分」というものはなくて、「自分」とは周りが見る「あなたはこんな人だよね」という言葉で作られるから。
(大嶋メソッドなら、周りが思う私のイメージがミラーニューロンで伝染してくる)
それなら、同じ集団内で私のイメージを変えればトップ2割になれるんじゃないの?と考えます。
心に「心よ!同じ集団だと上の2割になるのは難しいの?」と聞いてみると、「そんなことはない」という答が返ってきました。
だけど、所属する集団を変えたほうが、手っ取り早く自分のイメージを変えれるんだとか。
そして、周りの持つイメージで「私」が作られるのではなく、人は自分の信頼したイメージを信じるのだと私の心は言います。
人は信じたいものを信じるから、集団を変えたほうが早いらしい。
確かにある心理学実験で、人は自分に都合の良い情報だけを集める癖があると言われています。
しかし、「私は運動音痴である」ということを私は信じたかったのか?というとそうではない。
どちらかというと、足が速くて球技も上手い人間でいたかった。
それなのに何で、信じたいものを信じるということになるのか?
それは、そもそも「変わりたい!」と思うのが母親の影響であるから。
本当は何も変わる必要がないのに、「今のままの自分ではダメだ!」と思ってしまうのは、母親のしがらみが原因です。
だから、「私は運動音痴でダサい人間だ」と思っているのは、つまり「運動さえ人並にできるようになれば人生が変わるはず」だと意識で断定してしまっている状態であるということ。
だから、【無意識さんの力で無敵に生きる】に書かれていたように、意識をダウトすることが大切なんです。
でも、そんなことしなくても何も考えずにとりあえず今いる集団からまったく別の集団に変わった時に、「あれ?自分ってこんなことができるんだ」って気づいたりする。
今まで苦手だったことが、他の集団内では「そんなにできるんだ!すごいね!」と言われるかもしれません。
母親の支配と同じで、ずっと不快な集団に居続けるということは、戦わなくても良い自分と戦っている状態と同じなんだと思います。
本来は変える必要のない自分なのに、嫌なことを言ってくる母親や、集団の中にいて冴えない自分を感じ続けている限り、自分の欠点を直そうとして努力しても一向に改善されない。
なのに、母親から離れたり別の集団の中に入った時に、今まで欠点だと思っていた自分の個性が魅力的に見えたする。
そして、そもそも「変えなきゃ」と必死になっていた問題がなくなったりする。
だから、しがらみカッターで2:6:2の下の2割から抜け出すのなら、居場所を変えるのが手っ取り早いという話なのです。
ちなみに、ある集団でトップの2割になれたからと言って、それまで所属していた集団でもトップの2割になれるのかと言ったら、そうではないらしい。
人間関係が変わると、それぞれのグループ内での2:6:2の役割ができるんだけど、なぜか下の2割になると他の集団でも下の2割になりがちである。
でも、もしかしたらそれって上の2割になったことがないから、「不快!」の感覚が分からないだけなのかもしれません。
一度トップ2割になってストレスを流し込まれず自分らしく過ごせる感覚を得たなら、次からは「不快だ!」と思ったらその場を離れる基準というのが分かってくるでしょう。
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