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孤独を見つめた先に幸せがある

ひとりごと
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子供の頃、紙風船で遊んでいると、紙風船はすぐに破れてしまって使い物にならなくなってしまいます。

紙風船よりも「割れないシャボン玉」が好きで、あの独特の香りにも惹かれていました。
(「さわれるシャボン玉」という名称らしいですね)

しゃぼん玉も紙風船もすぐに破れてしまうから、子供の頃から収集癖があって「捨てられない」私は壊れない物が好きでした。

だから、壊れないのを確認するために、破壊していたのかもしれません。

赤ちゃんが何でも口に入れてしまうように、私はとにかく片っ端から破壊していって、一番丈夫な物が「安心できる」と思えるから、壊れて悲しい思いをしないものを選ぼうと幼い私なりに自分のことを考えていたのかもしれない。

そんなことを思うと、私が今までなくしたり落としたり壊してきたものって、私にとっては「必要ないもの」だったのでしょう。

私は、壊れないものを手に入れて安心したかった。
なぜなら、母親がいつも体調悪そうに床に臥せっていたから、「壊れない頑丈な物」を手に入れて安心したかったから。

「私を守ってくれるものは何?」と探し続けて、結局いつも破壊して、後に残るのは「寂しさ」だけだった。

もう何度も「別れたくない」と寂しさから逃げ回ろうとすればするほど、「それ」がやってくるのが早くなる。

せっかく仲良くなったのに転校していく友だちや、大切にしていたのにどこかで落としてなくしてしまった宝物は、私の中に「永遠なんてない」という事実を教えてくれたのです。

世の中はいつも不変で、人の気持ちもそう簡単には変わらないと思っていたけれど、ある時に私は「人の気持ちは変わる」ということを知りました。

それまで、自分が心変わりすることを良しとしていなかった私は、世の中の人はみな最初に言った言葉をそのまま一貫して守るのだと思っていたのです。

だけど、人の気持ちは変わるし、人の意見は変わります。

私はずっと「変わらない」ことを信じて生きてきたので、意見を変えた人々を責めて裁いていました。
だから、私自身も変えてはいけないと思っていたし、意見を変えることは裁かれるべき悪だと思っていたのです。

じゃあ、私がどこで「人の気持ちは変わる」ということに気づいたかと言うと、「恋愛」の場面でなんですよね。

なぜ、あの人は前言ったことを守らないんだろうとか、逆に前は絶対ムリだと言っていたのにどうして今はOKなんだろうとか。
その話の矛盾についていけずに、ずっと悶々としていました。

「人って、最初の意見と違うことを言うんだ」と気づいたのは、なんと私が30歳を過ぎてからだったのです。

「人の話の矛盾が気になる」というのは大嶋先生曰く高知能の人の特徴のようですが、私が話の矛盾が気になったその相手自身は自分の話が矛盾していることに全く気付いていないのです。

なので、私が話の矛盾を指摘すると怒られたり、「そんなこと言ってない」としらばっくれられたりします。

そう、私はそもそも人と会話が合わないことに苦しんでいました。

いつも相手の話に合わせていて、一生懸命に相手が喜ぶ言葉を伝えていたのですが、私の中では「演じている自分」という偽りのキャラクターで接している感覚だったので、会話をしていても一切満足感がなくて空虚感しか感じられませんでした。

話した後に「変に思われてないから」とか「あんなこと言わなければ良かった」という罪悪感がグルグルと脳内を駆け巡って止まりません。

そんなことばかりだったので、私はてっきり自分が話下手で人といると緊張しちゃうあがり症なのだと恥じていました。

でも、それは違ったんです。

話が合わないのは私がバカだからとかコミュ障だからではなく、実際は相手の頭の中で私への批判でいっぱいだったから、私はとても喋りにくかったわけなんです。

「あんなこと言ったら不快に思われるよな…」と思って何も言えなくなっている時、もしかしたら相手の脳内で「お前の考えは間違っている!」と裁かれているのかもしれません。

それに気づいたのは、34歳のぐらいの時に知能検査を受けてからです。

劣悪な環境での知能検査だったので、いつかは再検査を受けたいと思っているのですが、集中できなくて頭痛がしていたわりに私の知能は平均よりも上でした。

自分はずっと言語能力がないと思っていたのですが、なんと言語理解のスコアが高かったのです。

そこから、「自分は言葉を持っているのに、目の前の相手に影響されて上手く言葉を操れなかったんだ」ということに気づきました。

意識的な話でいうと、目の前の相手が「つまらなさそうかも…」とか「怖い人だなあ…」と感じていると、まごまごして会話がたどたどしくなってしまいます。

私はそれをずっと「自分にボキャブラリーがないからだ!」と思っていたので、音声学習としていろんな本や落語を聞いたり、小説や本をたくさん読みました。

でも、違ったんですよね。

いくら言葉を学んでも、実際「人」を目の前にすると言葉が出て来なくなってしまう。

私はこの現象が場面緘黙症に近いと思っていたのだけれど、ただただ目の前の相手に影響されて喋れなくなっていただけなのでした。

「そんなスピリチュアルな話があるか!」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、じゃあスラスラ喋れる人と全く喋れなくなる人の違いは何だ?と自分なりに解釈してみると、批判的な人かそうじゃないかの違いでした。

母親のように何を言っても批判してくる人と喋る時は、見事に私の中で自分を批判する声が渦巻いて言葉が出なくなります。

それこそ「安心感」があるかないかの違いかもしれません。

そう考えると、私が恋人を作っては破壊して更地に戻すを繰り返していたのは、その「安心感」を求めていたからかもしれません。

「ここは安心できる地なのか!」ということを、私はまるでGABRG2の遺伝子がオンになっている意地悪な子のように相手を突っついてみます。

母親から安心感を与えてもらえなかった私は、常に緊張状態を保つために何でもかんでもに怒りまくっていたので、安心できる状況を与えてくれる人を「私に嫌な態度を取ってくる敵」に作り替えるのがとても上手かったのです。

当時の私は、「私と付き合うとみんな本性出してくるんだよね~」なんて神みたいなことを言っていたのですが、今考えると「あなた、それは母親に愛され過ぎていて、他人を寄せ付けない愛の殺虫剤よ!」という状態でした。

母親は、私を愛していたからこそ余計な虫がつかないように、親密になった人に対して「嫌悪感」を抱くように私の脳内を支配していたのでしょう。

誰とも親密になれない私はいつも孤独で、ますます怒りと憎しみを増幅させていきます。

それに気づいた私は、じゃあ、本当の恋愛って何なの?と考えます。

大嶋先生の『大人の友だちづくりは難しい』を読んで、友だちとは互いに守り合う愛だということを知ったし、私が求めている友だち像も知りました。

では、私が本当に求めている恋愛って?と心に聞いてみようとすると、「そもそも私は恋愛を求めているのか?」という答が思い浮かんできます。
(ちなみに大嶋先生の恋愛本は『すごい恋愛ホルモン』です)

「理想の友だち」とイメージした時も「本当に友だちを欲しいと思っているの?」と思ったのですが、恋愛に対しても「本当に恋愛したいと思ってる?」という疑問が湧いてきます。

とりあえず心に聞いてみると、心は「あなたが欲しいのは恋愛ではなくて、ホルモンの安定」と答えます。

恋をすればするほどホルモンバランスが乱れて何も出来ない子になってしまうのを止めたいのに、恋愛中毒のようになってしまっていたのは、私の脳内が凪になると不安になってすぐに刺激を求めるような仕組みになってしまっていたから。

本当は脳内ホルモンのバランスを整えたいのに、禁断症状で「そのホルモンをください!」と乱高下してしまっていたから、止めたくても止められなかった。

だって、そのホルモンの分泌を止めてしまったら、禁断症状で苦しくなって「この世の終わりじゃ!」と絶望した気分になってしまうから、いつも酔って麻痺させていたのです。

麻痺していた私は、人にひどい仕打ちをしてもへっちゃらだったので、自分が無敵のような感じがして、「酔っている自分サイコ~!」となっていましたが、その無敵感を維持するためにはさらなる量の快感が必要になります。

当時の私はよく「痛みで痛みを相殺している」と言っていたのですが、それは本当にその通りだったのでしょう。

いつしか私の心の傷の痛みは快感となってしまっていたので、「傷つけられて捨てられる自分」に酔っているか「人にひどい仕打ちをしてサイコパスのように振舞う麻痺した自分」を演じているかのどちらからでした。

「もう嫌だ!」と思った時に、すべてを手放してみたのです。

そうすると、別れた彼氏は私の心配をするふりをして友だちに「面倒見てやってね」なんて言っていたので、「わあ!プロラクチンを出されていたから、私はドーパミンで無敵の人バリバリになっていたのか!」と離れた後に気づきます。
(10年ほど前の話ですが、今気づきました(笑))

私は自分がモンスターと化すことで、彼らの自尊心を満たしていたのです。

本来の知能に戻ることで、私は客観的に自分や状況を分析して「してはいけないことはやらない!」ときちんとセーブできるようになります。

本来の知能で生きる私は、自分が欲しいものをちゃんと分かっているので、目の前の欲望に飛びつかず、本当の目的に向かって自分を操縦していけます。

それがやがて自己効力感となって自分の自信になり、「私は一人でも大丈夫」と自分の孤独と向き合えるようになるのです。

「1人が嫌だ!1人が怖い!」と思っていた時は、自分の孤独を麻痺させようと他人の気持ちばかりを慮って今を生きれなかったのだけれど、「私は私」だと認識し「決めるのは自分」だと選択権を自分の中に感じた時に、私は自分の中の孤独は私が私であるためのプライドなんだと気づくのです。

そう、孤独は悪いものではない。
孤独があるからこそ、他人の痛みを分かって、そして他人を大切にする気持ちを持って接することができるから、自分も大事にできるし他人からも大切にされる自分であるのだと。

 

 

本日のメタファー:紙風船

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