“鍋”のメタファーを最近よく見ます。
“鍋”ってなんだかよく分からないですが、私の中では“母親の象徴”だったります。
それは母親が毎晩料理を作っている映像が脳裏に浮かんでくるからかもしれないし、そうではないかもしれない。
私は父親は一切家事洗濯料理をしない人だったので、料理とか洗濯っていうと母親というイメージが強いですね。
私は遺伝的に長女なので、父親の遺伝子です。
父親はたぶん発作系の人で、カッとなると手が出ますし、普段は温厚なのにいきなりキレ出してきます。
キレてる人って、きっと「自分が今どれぐらい怖い人になってしまっているのか」という自覚がないのかもしれまん。
発作なので、その時の記憶は解離して抜け落ちてしまっているとして、だから後になって「なぜ自分が怖がれているのか分からない。むしろ自分があなたのことを怖いと思ってます」みたいな感じになってしまったりする。
「自分は自分を攻撃されたと思ったから、キレ返しただけ」なのだけど、それが実際は攻撃されていないとしたら?
その恐怖はどこからやってきたのか?
こうやって「人が攻撃してきた!」と敏感に反応してしまう背景には、「自分が何か罪を犯しているのかもしれない」という罪悪感が背後に隠れているのかもしれない。
だから自分が犯した罪を暴かれるのを恐れてキレ返す。
だけど、キレ返せばキレ返すほど状況は悪化して、ますます自分が孤立していき「誰も自分のことを理解してくれない!」と発作が激しくなっていく。
これは昔の大嶋先生の本で、今はホルモンの乱高下で説明されているのかなと思っています。
たとえばドーパミンとプロラクチンがギッタンバッコンしていて、関係性を上手いこと保っていたり、バソプレシンとオキシトシンで相手を理想化してこき下ろすことが起こったり…。
人と人との関係というのは、うまい具合にバランスを取って成り立っているというのが、よく分かります。
たとえば自分が治ったら相手が悪化してしまったとか、悪くなってしまったという場合には、自分が最初に悪い態度を取ることで相手を保っていてあげたのかもしれない。
そのバランスが崩れた時に、「自分は治ったけど、今度は相手が大変!」となってしまって、相手が治っていく過程で自分の中の深淵と向き合うことになったりする。
「深淵」というと、何か恐ろしいものがその穴の中にあるような気がするけれど、その穴の中にあるのは自分を映し出した大きな鏡です。
自分の顔を鏡で見る時に「ウッ!」となってしまうのは、自分の醜さを直視したくなくて他人のせいにしてしまいたい自分がいるから。
そうなると、どんどんどんどん醜さに向き合わない自分を避けてしまって、本当は美しくなれるのに、イメージの中の醜い自分に逆に固執してしまう。
「私は醜いんだ…」と努力をすることを放棄して、自分の醜さを受け止められずにのたうち回る。
だけど、その醜さの向こう側に、本来のあなたの美しさがあるのかもしれない。
じゃあ、どうして今の自分は醜いの?と思った時に、もしかしたらそれは誰かの求めているあなたの姿なのかもしれないということ。
あなたが自由になったら、困る人はいるのだろうか。
私は、「美しい本来の自分」というのは元から自分の中にあって、それを適切に自分の中でコントロールしていくよりは、「私は元から美しいんだ」ということに気づくだけで、いろんなものの影響が取れていくのかもしれないと思っています。
だけど、そう思っていても中々「本来の自分のまま」美しく生きるということは難しいのかもしれない。
そんな時に、「私は誰の影響も受けずとも、私らしくあることは美しい」と唱えてもらうと良いかもしれない。
メタファー:銀色の鍋(取っ手が両脇に二つの円形の鍋、ちょっと焦げついてる)
コメント