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光を見たくて絶望する

気づきの記録

「内省する」と「正しく絶望する」というのは、同じことなのだと思っています。
人に言えない恥ずかしいことを認める。
でも、この認める作業がめっちゃしんどい。

別に誰に言うでもなく、ただノートに書くだけなんだけど。
いや、そもそも頭の中で認めたくないことを認めること自体がとても苦痛。

誰も聞いてないのに、頭の中で自分の「できない」ことを認めるというのはとても辛い。
なぜなら、「できない」と自分が認めてしまった時点で、人間以下の烙印を押されるような気がするから。

どうして内省や絶望が必要なの?というと、私は自分を変えたかったから。
セルフFAPする時も、どんどんトラウマを取っていくと、表面的な悩みだと指が反応しなくなっちゃうんですよね。
自分でも「〇〇が気になる」という言葉にする時に、「うーん、これに近いけどなんかもうちょっと下にある気がするんだよなあ」という気がする。

そんな時に「人に言えない恥ずかしいこと」を探ったりする。
(心に聞いて「これは何歳の感覚?」と聞いたりすることもあります)

 

「絶望」
私は日常生活で頻繁にしていますが、それは表面上の絶望でしかなかったのだと思う。
絶望しているようで、恐怖の回避に使っていただけなんだろう。
恐怖は回避すると増幅する。
でも、恐怖に向き合うと痛い思いをしそうで怖いから、向き合えない。

「相手にも事情があるしな」とか「私のここが悪かったな」という反省も、ただの恐怖の回避でしかなかった。
自分に言い聞かせているようで、すぐにまた不安や怒りが湧いてくるということは、絶望や内省が足りない。
まだ見ようとしていない何かが奥底に眠っている。

「私はこれができないんだ」と認めることで何かが減るわけではないのに、認めた瞬間に足元からガラガラと崩れていくあの感覚に直面したくなくて、「できる自分」「愛される自分」にしがみついていたんです。
なるべく早めに認めた方が被害が少なく済むのに、認めないことで自分のプライドを保とうとしている。
それすらも、偽りの快感なのかもしれない。

 

どうして「できない」と言うことが苦痛なのか?
「できない」と言うことが苦痛でない人もいるかと思いますが、私は頼まれごとを断るのも、他人がやっていて自分にはできないことがあると認めることも、とてもとても嫌です。

「できない」自分に絶望するとしたら、できない自分は人から必要とされない価値がない存在だから?
ちょっと弱いな。
価値がないと愛されないから?
いや、「できない」の裏に「自分はできて当たり前」があるのかもしれない。

「自分はできて当たり前」と思っているから、できない自分が許せない。
では、なぜ「できて当たり前」と思っているのか?

自分は人よりも能力が高いと思っているから?優れていると思っている?
自分を神だと思っている万能感なのか、ダニング・クルーガーなのか…。

たとえば、私は「恋愛における男性はみんな自分の父親と同じ」と思っていました。
どういうことかというと、自分の父親のようにみんな自分勝手でパートナーに何もしなくて横暴で、思い通りにいかないことがあるとキレると思っていたんですよね。
(男性のみなさん、すみません)

でも、これって意識して思っていたのではなくて、恋愛が何度も何度も上手くいかなくなった時に「なんでだろう?」と考えて出てきたんです。
「ああ、そうか。自分は恋人に父親を投影していたのか」と気づいて認めた時に、「でも私も自分勝手でワガママだしな」と浮かんできたんです。
なんなら、人間ってみんな自分勝手だしワガママだよね!って。

そう思った時に、「なあんだ、自分も相手も一緒か!」と思って、他人のワガママを許せるような気がしたんです。
多様性を認めるとは、こういうことなのかもしれないと。

 

「できない自分がダメ人間」だと絶望するのではなく、「できないんだ」とか「これが苦手なんだ」と正しく絶望した時に、自分を変えなければいけないという意識の世界から解放されるのかもしれない。
「絶望」はただのドットであって、絶望を認めた時にドット以外の無限の可能性が広がっていることに気づく。

私はお師匠さんの鹿の話が好きです。
鹿が民家に入ったまま出てこなかった話です。

『戦艦ポチョムキン』はまだ観ていませんが、自分が救いのない小説や映画が好きなのは、もっと自分の中の絶望と向き合いたいからなのかもしれない。

 

「絶望」とは、光を再び見るために必要な暗闇なのだろう。

 

 

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