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私がいつも怒っていたのは、自分を守るため。

ひとりごと
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般若とか赤鬼っていうと、数年前にメタファーを出している時も頻繁に出てきていました。

「なんだろう、私が怒っているということかな?」と考えますが、心が言うのはどうやら違うことみたいです。

この「般若」や「赤鬼」のメタファーが出てくる時、私はいつも何かに焦っていて、それで心が鬼のようになっているのです。
つまり、余裕がない状態を「般若」とか「赤鬼」で表現しているようで、それは私が他人から見た時に鬼気迫る感じできっと怖いんだろうな~…近寄りがたいんだろうな~…ということを彷彿させます。

だからと言って、「じゃあ、どうしたら私が他の人に怖がられないように、かつ仕事を迅速に終わらせられるようになるのか?」と心に聞いてみたところ、「そんなものはない!だけど、あなたが人から怖がられるのはあなたが怖いからじゃなくて、あなたを見た人々が自分の深淵を見てしまうからだ」なんて言ってきます。

共感性羞恥心に近いもので、私が「ああ、忙しい忙しい!」と言っていると、それを見たまわりの人も「自分はあんなふうに見られているのかもしれない…」という「他人のふり見て我が振り直せ」のような感じになっているそうです。
(ほんまかいな)

それと般若と赤鬼がどう関係あるのかというと(また、今日も自分で何の話を書いているのか全く分かっていません…)、心は「般若と赤鬼から連想することを言ってみ?」と言ってきます。

そうですね…般若と言えば「顔が怖い」。そして「怒っている時の誰かの顔みたい」と思いました。
赤鬼は、「昔読んだこぶとりじいさんの話を思い出すなあ」と思うのです。

そういえば私は、小学生の頃から母親が笑っている姿をあまり見ていなかったかもしれません。
母親だけでなく、父親も妹も、いつも私に怒っていて、だからか私も常に世の中や人や担任に対して怒りを持っていて、相手が悪気なく言った言葉や態度にすぐキレていました。

きっと心の中では無自覚に「周囲はみんな敵!」と思っていたのでしょう。

味方なんて誰一人いなくて、自分を守れるのは自分だけ。
だけど、担任は変えられないし、家の状況も変えられないし、私の運命も変えられない…。
いよいよ「死ぬしかない!」となった時でも、家族の誰にも気づいてもらえなかったのです。

ずっと私は一人ぼっちでした。

枕元に遺書を置いて学校に行っても捨てられているだけでしたし(母親は実際何か思っていたかもしれませんが、それに関して触れられたことはこの37年間1回もありません)、「死にたい」という気持ちを理解してくれる人なんてまわりには誰一人いませんでした。

般若はそんな私の「誰も助けてくれない!一人で生きていかなきゃ!」という悲痛な叫びを表しているようで、赤鬼はそんな悲痛な叫びを「踊りと笑いで誤魔化そう」としているような気がします。

幼少期に「一人で生きていかなきゃならない!親を頼れない!」となってしまうと、本来なら親に守ってもらうはずなのに「自分が親」のようになってしまうので、プロラクチンが過剰に出ていたのかもしれません。

プロラクチンとドーパミンがきちんと安定しなかった…ということは、男根期か!と思って、数年前の大嶋先生の講演の資料を見返してみると、なんと「去勢の恐怖」と書いてあるではないか…。

最近、自分の深淵を探っていて行き着いたのが、「去勢」でした。

自分が「恥ずかしい!」と思うことや人に言えないことと考えた時に、「性」の話が出てきたのです。

もう何を話しても「恥ずかしい」だなんて思わないし、無敵の自分になれた気がしていたのですが(無敵はまた別の人になってしまうか…)、まさかこんなところに大きなものが残っていたなんて…という巨大な塊が深淵となって私の心の奥底に眠っていました。

マザコン・ファザコンとここでは耳当たりの良い言葉を使いますが、それが私の深淵にあったのです。
(これ以上は強烈過ぎて、ここでは書けませんが…)

そう言えば自分は昔、強迫的行動が多くチックであり、〇〇恐怖症のような症状が増えたのものこの時期でした。

「あ~なんだ、プロラクチンとドーパミンか~」と思ったけれど、その奥はとても深い。
誰かに母性行動を取って嫌がられて突き放されたり、その逆も然り。

誰かに親しみを出されて近づかれたら「なぜか嫌悪感!」となっていたのは、愛着の問題もあるかもしれませんが、このドーパミンとプロラクチンのバランスが上手く取れずにドーパミンが過剰に出てしまっていたのかもしれません。
(私は専門家ではないので、心の言うままに書いているだけです。ナラティブです。)

そうそう、この「人に近づかれて嫌悪感!」というのを、セルフFAPで取ったんですよ。
「人が嫌い」なのかと思いきや、「人は自分を理解してくれない」というのが私のトラウマでした。

「人に対する嫌悪感」でもいろいろ種類があるんだな~と思いますし、一口に「人が嫌い」と言ってもその原因や理由はさまざまです。

だから、私はFAPで自分の深層心理を探るのがとても好きです。

本来、自分が自覚している感情と自分の身体が感じている感情が一致したら、やがて不快な感情は消えてなくなっていきます。
パズルのピースのように、またはぷよぷよのように、同じもので打ち消せるのです。

だけど、その不快な感情が人のものだったり、「違う感情」だった場合、感情の波はなかなか消えてくれません。

「怒ってる」と思っていても実は「悲しんでいた」という場合は、不快な感情は自分の中に消えずに残っているのです。

私は、この消えずに残っている感情のピースを探り当てるのが好きで、その時の爽快感と言ったら「本当の自分に出会えた!」というような不思議な感覚があります。

私の「理解されない嫌悪感」はとても根強いもので、人にすぐイライラしてしまうのもこれが原因でした。
「どうせ分かってない!」「ほら、分かってない!」「何で分からない!」今まで散々いろんな状況の「理解されない」場面に遭遇してきた私は、「人はみんな敵」と思っていたのです。
(お!ここで話が戻るのか)

そうです、敵だからこそ、私は自分で自分の身を守るために、常に怒って攻撃心バリバリでいないといけなかったのです。

だから、優しく声を掛けてくれる人も信じられなくて疑って、最終的にはみんなをボロボロにしてしまったし、結局ずっと一人ぼっちのままでした。

「理解されない」トラウマがより「理解されない」状況を強くし、自分を孤立させていったのです。

理解しない人は敵で、理解しようとする姿勢も「どうせ最後には批判するでしょ!」と心のどこかで思っていたのです。

本当は、私のまわりに敵なんて、もういなかった。
私が作り出した幻想の敵は、いつも母親と父親の姿をしていたけれど、あの人たちは私の父親でも母親でもなかった…。

 

 

本日のメタファー:赤鬼、般若の面(またか!)

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