近所の公園に大きな滑り台があって、私はその滑り台を滑ってはまた上にのぼり、何度も何度も同じように上から下へと滑ります。
滑る瞬間は一瞬で終わるので、物足りなくて何度も挑戦します。
階段をのぼってはてっぺんからビューンと滑り降りると、顔に真正面から風が吹いて、前髪がすべて後ろになびいていきます。
そして、気づいた時には地面に足をついているので「あれ?もう終わったの?」と思います。
もっと長い滑り台を滑りたいと思って、近所の公園ではなく少し遠い公園に出掛けて滑ろうと思うのですが、いざ長い滑り台を前にすると「怖い」という感情が湧いてくるのです。
きっと滑り台は「物足りない」ぐらいの長さでちょうど良いのだと思います。
欲張って長くて急な滑り台に行くと、今度はそこから滑るのに勇気がいるし、長くてゆるやかな滑り台に行くと途中でつっかえてしまって止まるので、何度も何度も手で体を押し出して滑らなければなりません。
ウォータースライダーというのが近所のプールにありましたが、あれは楽しかったです。
やはり滑る前は「怖いな」と思うのですが、一旦滑り始めるとスピードが心地良くて、やっぱり「あっという間だった!」と思うのです。
「怖い」という感情は、今まで感じたことがないスピードで下っていく恐怖と、自分の体でスピードをコントロールできない怖さから来ているのかもしれません。
自分で自分自身をコントロールできないとなると、不安になります。
また、未知の体験であっても「これから何が起こるのか想像ができない…」ということで不安な気持ちが湧いてきてもおかしくはないでしょう。
これはきっと危機管理能力なのではないかと思います。
きちんと「危険だ」と頭の中で認識していて、事前に危険を察知して避けることで、自分の生命を守っていきます。
だけど、自分の「危険だ」という声を無視して「スリルギリギリで味わう快感」というのもありますが、これは「危機的状況でないと、生きてる!と感じられない」からかもしれません。
淡々と平凡な毎日に飽きてスリルを求めてしまって、それまで積み上げてきたものを台無しにしてしまったり、いつも何か不安なことや心配なことを考えてしまうというような場合は「危機的状況が快感」になってしまっているのかもしれません。
心の底からこれを楽しめたら問題ないのかもしれませんが、「こわいこわい…」と思いながら日々を過ごしていて、緊張と不安で押しつぶされそうな時、そんな状態が何日も何時間も続いては疲れ切ってしまいます。
肝心なところで力を発揮できないだろうし、常に緊張と不安でガチガチに固まってしまっているから、思うように動けない。
思うように動けないと、思考も視野もどんどん狭くなっていくかもしれません。
だから、そんな時に「私にとって安全な場所」を心に思い浮かべてみます。
私の場合は、「そよそよと風が吹く春の野原」が安全な場所のイメージです。
モネの『日傘をさす女性』がそんなイメージです。
そういえば、以前支配者の内容を特定する際に、モネの『オフィーリア』がイメージとして浮かんできた時があります。
「なんて美しい!」と思うと同時に、どこか悲壮感を感じるというかなんとなく不気味さを感じるイメージが脳内に広がりました。
(あくまで心のイメージなので、実際の作品の解釈とはまた異なります)
美しさと対照的な不気味さというなんとも言えないハーモニーが、これが「偽りの快感なのか!」と自分ではとてもしっくりきました。
不快を快と思って繰り返してしまう裏側には、本当に見事にビックリするような暗示が入れられています。
それで言うなら、私が自分で出した「偽りの快感」の中に「時間に間に合わない」というのがあります。
これの支配の内容を心に聞いてみると、ダリの『記憶の固執』の柔らかい時計がイメージとして出てきます。
ダリは私の好きなアーティストなのですが、これを心に再度確かめてみると「歪められた時間の中で、あなたは真っ直ぐに進めない」と出てくるのです。
つまり、時計がぐにゃりと曲がっているから正確に時間を計れないし、時計自体が曲がっているから針がチクタクと順調に進まないのです。
(実際の「柔らかい時計」の解釈は全く違います。もしかしたら、もっともっと深堀すると、作品の解釈も何かに繋がっていくのかもしれませんが…)
では、なぜ私の中の時計はぐにゃりと歪んでいるし、私は歪められた時間の中にいるのか?というと、「母親に時計を曲げられたから」と出てきます。
どこで、いつ母親に時計を曲げられたのか?ということを探っていくと、母親が私のことを常に間違い探しのように見張っているから、私は私の時間で生きられない…と心に言われるのです。
この間違い探しの材料が「普通の真っ直ぐな時計」と「ぐにゃりと柔らかく曲がった時計」らしいのです。
つまり、母親の世界で母親の解釈の元、私の判断はいつも「間違っている!」となっていたのです。
それがどう「いつも時間に間に合わない」という偽りの快感と関係があるのかというと、「母親の指示がないと焦らないし動けない」というものがあったのです。
心に聞くイメージは恐ろしくもあるけれど、そこに「醜い」「汚らしい」という判断をつけてしまうとそれは意識の世界になってしまいます。
スクリプトを書く時にもよく「こんなイメージで大丈夫?なんか暗くない?」と思うけれど、「暗いor明るい」は私の主観での判断。
そういった判断が出てきてしまう時にこそ、「あ、自分は今、意識的になっているのかも」と気づいてあげることで、どんどん心の声を聞けて、心のイメージを見ることができるかもしれません。
心が教えてくれることは怖いことではなく、それに気づいて「あ、そういうことだったんだ!」と知ることだけで、何かから解放されて自由になっていく可能性が広がっていくでしょう。
本日のメタファー:ゾウの滑り台
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