私は幼少期、自分の記憶力が自慢でした。
人が覚えていない昔のことを覚えていたり、人よりも覚えるのが早かったりしていたのでしょう。
だから、小学校6年生の時の作文に、私が覚えている中で一番古い記憶の話を書いたんです。
それは、近所の公園に家族と行った3歳の頃の記憶で、小さくて白い花が満開に咲いている背の低い木のイメージでした。
後々、母親が愛読していた『ポーの一族』を読んで知ったのですが、あれが沈丁花だったんですね。
今にして思えば、その記憶は実は捏造されたものだったんじゃないかと思っています。
なぜなら、小学校の時に毎日引いていたピアノの上に、満開の沈丁花の前に妹が座っている写真が飾られていて、それを毎日見ていたはずだから。
でも、その時は「私、すごいでしょ!」という気持ちだったので、まさか母に「みんな、もっと楽しかった思い出とか書いてるのに、なんであんたはこんなしょーもないこと」みたいなことを言われるとは思ってもいませんでした。
褒めてもらいたかったのに、私が自慢したいことと母親が思っていることは全く噛み合わなかったのです。
思えば、小学生の頃に近所の遊園地で砂絵のイベントをしていて、そこに参加した時もそうでした。
低学年の子が対象だったみたいで、高学年だった私はアウェーな感じがしたのですが、自分では「絵を描くのが得意だ!」と思っていたので、堂々とバラの花の砂絵を描きました。
だけど、イベントのお姉さんが不思議そうに「何それ?」みたいに私に尋ねてきて、私は「バラ」と答えるけれど全然ピンときてないようで、何も言わずに他の小さな子たちに楽しそうに話しかけていました。
その時もショックだったな~と思い出します。
子供らしくない子供だったんですよね。
電話の応対もどこで覚えたのか、小学生のくせにビジネス的な話し方をしていたので、今思い出すとかなり恥ずかしい。
背伸びをして大人のふりをしていたのは、「偉いね~賢いね~」と他人に褒められたら、母親が喜ぶと思っていたから。
さらに私は奇をてらうタイプだったので、人と違うことをして「変わってる」と思われるのも快感でした。
今の自分からすると、かなり滑稽ですが。
しかし、そんなことをすればするほど、母親に「何この子、ズレてる」という目で見られます。
私としては、母親に自慢の子どもだと思ってほしくて一生懸命キャラを作っているのに、母親から見ても“気持ち悪くて痛い子”なんです。
そんな私の3歳のトラウマは「分かり合えない」こと。
同じ家族であっても、血が繋がっていても、同じ感性をしていないから通じ合えない。
だから、母親に「はあ?」という反応をされる。
そして、褒められるとばかり期待していた私は「こんなはずじゃなかったのに…」とショックを受けて傷つく。
じゃあ、どうしたら良いのかというか、母親にだけ話すのではなく、「みんな」に話すこと。
いろんな人に分け隔てなく話していくこと。
そうすることで、母親は無条件の愛をくれる人ではないということが分かってくるし、義人は1人もいないことも分かる。
そう、みんな自分のことし考えてないんです。
ちなみに母親が褒めてくれないのはミュンヒハウゼンと同じことで、私が母親に「構ってほしい!」と言っても受け取ってもらえないのは、母親が「構ってほしい」人だから。
母親の愚痴が多いのは、「かわいそうな人」だと慰めて優しくしてもらいたいから。
誰かに甘えたいから。
そんな母親を私はいつも無視してしまって、友達には言える「大丈夫?」を母親には言えない。
そして、彼氏に母親を投影している時は、彼氏が苦しんでいる時に「大丈夫?」と言えずイラッとして無視してしまう。
(嫉妬なのかもしれませんが、それはまた別の機会に)
つまり、母親と上手くやっていくためには、私が母親に「褒めて!」と言うより、母親を“理解”するということである。
私がまず先に母親を理解して「大丈夫?」と母親の世界を受け止めることで、母親も私に安心してこちらの話を聞いてくれる。
すると、同じ気持ちになれるので相互理解が生まれる。
今日はそんな話をしろと心に言われた。
でも、「え!理解なんかしたくないんですけど!」と思う人もいると思います。
ここで言う“理解”とは相手のことを分かることではないから、相手を理解しなくても大丈夫。
(何を言っているのだ)
「分かり合えない」ということを知るのが大事なんです。
そして、相手の背景を知ることも大切。
そうすると、自分が楽になる。
「分かり合えなくて、しんどい」と思う感覚は、母親のものを背負っていたから。
母親の「愛されたい」重みに耐えられなくて、自分が無力だと思っていた。
ん?支配者には感情がないから、「愛されたい」なんて思わないんじゃないの?と心に聞いてみると、母親の「愛されたい」重みを言い換えたら「愛に応えない者への罰」だと教えてくれた。
母親がせっかく「愛してあげよう」と愛される方法を教えてくれているのに、その母親の愛に応えない私は、許されない罪を背負わされる。
それが大嶋先生の言うところ、「罪悪感で支配される」という状態なのかもしれない。
強烈に「かまってほしい」と思うのは自分の感覚ではなくて、母親のトラウマであること。
だから、母親の孤独を先に”理解”して癒してあげると、私も自由になれるかもしれない。
(ナラティブです)
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