私は玄関の前に門がある家に憧れていました。
また、大きな広い庭がある家にも憧れていました。
うちの実家は、私が幼い頃に建て直されて、本来は同居するはずじゃなかったのに、父方の祖父母と急遽同居することになりました。
玄関を開けるとひらけた空間があり、子供の頃の私にとってそこはスポットライトが当たった舞台のようで、とてもお気に入りでした。
だけど、母からしたら「ムダな空間」であり、確かにあの大きな広い空間がなければ、もう一部屋作れたようにも思えます。
そのひらけた廊下は吹き抜けになっており、天井からはランプの束がぶら下がっています。
子供ながらに「オシャレだなあ」と思っていたし、壁には鳥が飛び出てくる鳩時計のような時計が掛けられていました。
(これは小学生の中学年ぐらいに電池切れになったまま放置されていたと思います)
うちの階段は力桁階段のようなもので、足元を見ると下の廊下が丸見えです。
私はこの階段もなかなかオシャレで気に入っていたのですが、友達が家に来ると必ず「下が見えて怖い!」と言われていました。
そういえば、私は急にある時を境に喋らなくなったと記憶しています。
昔はお喋りで、自分のことを「なっちゃんはね!」と言うようなちょっとぶりっ子のような子供だったと思うのですが、突然人と話すことに対して恐怖を感じるようになりました。
私の幼少期の記憶というのは、家で怒られるか泣いているのかしかの記憶がなく、両親と会話している記憶がほとんどありません。
休日は、他の家の子なら両親と喋ったりしていて楽しいのかもしれませんが、私の場合は一人遊びするしかなく、退屈で退屈で仕方ありませんでした。
なので、スケッチブックと色鉛筆を持って外に出掛け、近所のムスカリや鈴蘭の花を模写していたりする思い出があります。
私にとって「休日」は苦痛なものであり、今もそれは変わっていません。
休みになると、何か「意味のあることをやらなきゃ!」と焦ってしまいます。
だけど、休みの日は本来「何もしない」ことで心身の回復を図るものなのでしょう。
私にとって「休む」は「サボる」と同義であり、休むことで得られるものは何もないと思っていました。
けれども、「休み」が苦手な人ほど休んだ方が良いと、今では思っています。
その理由は、「休むことで脳の効率が上がるから」。
大体休めない時って、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」と常に先のことを考えているけれど、実際何も手についていない状態だったりします。
休んでいないから脳の処理が上手くできず、優先順位が適切に考えられないのかもしれません。
そんな状態だから脳はいつも「休ませてくれー!」と思っているので、本来やらなきゃいけない仕事ではなく「どうでもいい仕事」に取り掛かってしまって、「ああ…また今日も仕事が出来なかった…」と落ち込んでしまうのかもしれません。
だから自分が余計な仕事を始めたら「あ!今、自分は休みを欲しているんだ!」と思って、思いっ切り休んだ方が良いのかもしれません。
それが「いやいや、私はそんなこと言って毎日休んでるんだが…」と思ったとしても、それだけ休みが必要な状態なのだと思います。
「休み」というのは誰かにもらうものではなく、きっと「自分から与えるもの」なんでしょう。
私の望む最適な「休み方」というのは、休日に立派な家の色とりどりの草花が咲き誇る庭で、揺れるイスに腰かけながらゆったりと読書しながら熱い紅茶を飲むことです。
こんな優雅な生活を夢見て、私は今日も仕事に追われながらパソコンの脇に置いたデカフェを飲みつつ、「明日は休めるかどうか」を考えています(笑)
(私の仕事は現在、日曜日が定休日です)
本日のメタファー:扉、重厚な門
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