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自分を褒めることは最大のご褒美。

ひとりごと
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『HUNTER×HUNTER』で、誰かの能力者が大きな袋だか風呂敷に敵を詰め込むみたいな能力を持っていたなあと思い出します。
あ、梟だったかな?

ドラえもんのポケットのように物を詰め込んでいたような…(あやふやな覚え方)
で、私もそんな大きな風呂敷に物をたくさん詰め込んで、それで家にある物を楽チンに持ち運べたらなあとか考えるのです。

だけど、人生にそんな大きな袋だったり荷物が果たして本当に必要なのだろうか?と自分自身に問いかけてみます。

私は何のためにメモをしたり、物を買っては大事にできずに壊してしまったりなくしてしまったり…そうやって物も人も新陳代謝を繰り返し、そして成長していくのかもしれません。

だから「捨てる」というのは確かに痛みが伴うけれど、それは「成長痛」だと考えた時に、「あ、今身長が伸びていきているから体が痛いんだ」という感じで、自分の中のプラスとして捉えられたら良いのかもしれません。

だけど、なるべく私は人間だから痛いのは嫌じゃないですか。
出来れば痛みなど感じずに毎日過ごしたいし、嫌なこともこれ以上傷つくことも体験したくない。

痛みがないのは私が自分に甘いから?と思ってしまうのです。
自分を甘やかしているから、人生が何事も嫌なことが起こらずに都合の良いことばかり起こるのかというと、そうでもない。

人は痛みを伴って成長するかもしれないけれど、何も嫌なことや苦痛がない世界に本当はいきたいはず。

だけど、いざその痛みが自分の中から消えてしまった時に「あれ?これって本当に大丈夫?」と不安になってしまいます。

それはもしかしたら痛みを感じた時に出るエンドルフィンという脳内麻薬を欲しているから「苦痛が欲しい~!」と求める行動を取ってしまうのかもしれないし、もしくは「痛みがないとダメな子になる!」という母親のしつけの賜物かもしれない。

そうだとしても、どっちみちもう今の自分には苦痛や痛みという感情は必要なくて、ただ「今までがんばって生きてきたよね」とサバイバルして乗り越えてきた自分を、自分自身が褒めて認めてあげることかもしれない。

「誰か」に褒めてもらうことではなく、自分が自分に「良くやってきたね」と心の底から思えた時に、自分の心の傷というのが癒されていくのかもしれない。

逆に「自分はあの時にもっとやれたはずだ!」と傷を認めず自分の能力も認められない状態だから、苦痛を求めて脳内麻薬を欲して、自ら茨の道に誘導してしまうようなことになってしまうのでしょう。

「自分はよくやった」という最大の誉め言葉が、自分自身の何よりの癒しであり、自分自身が自分の最大の理解者であること。

そう思った時に「じゃあ、自分は今、何がしたんだろう?」と初めて自分の声に耳を傾けることができます。

誰かの意見や声を頼りにするのではなく、自分の身体感覚に注目を向けて「自分の体が悲鳴を上げている」ことを認めてしまったり、「自分の心がそれを嫌だと思っている」ということをきちんと認識して物や人と距離を取ること。

そうすることで汚物みまみれた自分の感覚から自由になって羽ばたいていけるのかもしれない。

だから「心よ」と問いかけることに意味がある。

誰かの感覚ではなく、自分自身の内面の声に耳を傾けた時に、「自分は今、何を感じているのか?」と自分の感覚に注目していると、今まで気づかなかった腰痛や頭痛や眠気に気づくことができるのかもしれない。

そうやってひとつひとつ自分の身体と対話をしていくことで、自分の限界を知ることにも繋がっていくだろうし、自分の心の声と繋がりやすくなる。

そして、心の声を頼りに導かれて見た世界は、自分が想像していた何十倍も美しい景色がそこには広がっている。

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本日のメタファー:大きな袋、サンタクロースが担いでいるような白いプレゼントが入っているような袋

サンタさんの袋、わりと安かったです(笑)

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