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心に聞くことで本来の自分の望みが見えてくる。

ひとりごと
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私はこれまでに海外に行ったことは1回しかありません。
それも専門学校の実習みたいなやつで、ほぼ遊びに行ったような感じでした。

初めて行った海外というと、英語は話せないし結局同級生としかつるまないので、まあ日本にいるのと変わりはなかった印象です。

たとえばこれが、一人でどこかの国にホームステイ行くとかだったら、もっと違ったのかもしれません。

その国の文化を学びに行ったというよりは、「海外って建物が大きいんだな~」「初めて砂漠を見た」というような感じだったので、東京に修学旅行に行った学生か鳥取砂丘に初めて旅行に行ったような感覚に近かったのかもしれません。

大人になってから「もう一度、現地でシルク・ドゥ・ソレイユを見るぞ!」と誓っていたのですが、そもそもお金を持っていたとしても時間に追われていて、海外に行っている暇なんてありませんでした。

そして「海外に行くにはまず勉強から始めないと!」と思うと、果てしない道のりのような気がして、ついには行くことを諦めてしまうのです。

こうやって、やりたいことはたくさんのあるのに、その道のりを考えただけで「あー、疲れた」となるのは、もしかしたら別時間軸の自分はすでにその目標を達成しているから。
(『見ない聞かない反省しない』より)

複数の時間軸があったとして、私は今、膨大な選択肢の中のたった一つを選んで生きています。

だから「ああなったらいいな」とか「こうなったらいいな」という思いは、もしかしたら別の時間軸の自分が体験したことがあるから、「私にも出来るのかも」と思えるのかもしれない。

そうすると「私が今“やりたいな”と思っていることは、たしかに私にそれをやり遂げる能力が備わっているから」だと考えられるのです。

そもそも能力がないことなら、“やりたいな”と思いつきもしないかもしれません。

試しに「心よ、私には何ができる?」と聞いてみると、「何でもできるよ!」と言ってきます。

「ほんまかいな」と思った方は、さらに「心よ、私は何でも出来るとしたら、何をやるのが向いている?」と聞いてみます。
すると心は「何でもできるけれど、自分を追い詰めたり自分で自分の首を絞めるようなことはやめておこう」と言ってきます。

「心よ、それはどうして?」と聞いてみると、心は「自分を追い込むことによって得られるものはないから」と分かり切っていることを答えてきます。

だけど、ふと我に返って「分かっていると思っていても実際できていない!」という自分に気づいてしまうのです。

自分が苦しんだって結果が伴わないことだって珍しくないし、なんなら「苦しんだだけで終わった!」ということばかりなのかもしれません。

それでも、なぜか「努力して苦しんだ先に幸せが待っている!」と信じている自分がいることに、気づくのです。

「何のために努力するの?」ともし誰かに聞かれたとしたら、私はきっと「自分のために」と答えると思うのですが、その深層心理は「誰かに非難されたくないから“自分のために”鍛える」とか「誰かに怒られたくないから“自分のために”技術を磨く」とか、そんなところに行き着いてしまうのです。

だけど、神様でもない限り、完璧な人間なんていません。
もし居たとしても、それはもしかしたら支配者かもしれません。

だから「誰かのために自分が頑張っているわけではない!」と思いながら、回り回って誰かのためになっているのだと思っています。

それが「自己犠牲」というものになってしまうから、際限なく努力を続けていないと不安で不安で仕方なくなるのです。

「ありのままの自分」と思った時に出てくるイメージは、「家の中でのんびり本を読んでいる自分」です。

これはきっと、私が誰かに邪魔されることなく、時間の流れすら気にすることなく、何かに没頭して極めていける技術を示しているのではないかと思いました。

「人の気持ちを考えるとマウンティングされる」であったり、「かわいそうな人のことを考えると搾取される」であったりが説明されているのは、最近文庫化した『あなたを疲れさせるあの人を「どうでもいいや」と思えるようになる本』です。

あー!マウンティングって、それをしてくる相手が自分のことを弱者だと思っているんだ!ということを知った時は、目からウロコでした。

いわゆるル・サンチマンですが、同時に自分が「今、マウンティングしてしまったかも…」という時も同じく、マウンティングを掛けてしまった相手に上下関係を感じて「立場が自分より上の相手になら何をしても良い!」とやっちゃっているのかもしれません。

どうして人間関係に疲れるの?というと、理由の第一位は「相手の反応や人の気持ちが気になる」になるのではないでしょうか?

人の気持ちや反応を気にせずに生きることができたら、悩みごとの大半はなくなるのにな~と思っていましたが、いざまわりに不快な人が誰もいなくなった時に感じたのは「おだやかな孤独」です。

「孤独」は敬遠するものではなく楽しむものだと書かれていたのは『誰もわかってくれない「孤独」がすぐ消える本』です
『チクチク・いやみ・理不尽と感じる「ほんのひと言」に気づかなくなる』でも、人の気持ちを考えてしまうのはひとりぼっちの自分でいたくないという子供の自分だと書かれていたと思います。

もう、目の前には顔色を気にしなければならない親はいないし、親に守ってもらえなかったとしても自分で稼いで決断して生活をしていけるのです。

いつまでも「人の気持ち」に憑りつかれてしまうのは、過去の親の言動が未だに自分の中でくすぶっているからかもしれません。

他人と親を重ねて見てしまっているからこそ、上手く人間関係が築けなかったり距離感を保てなかったりしてしまいます。

自分の中の“親”という幻想を打ち消して自分らしく生きていくことこそが、「トラウマを癒したい」と思う方々の本当の願いに繋がるのかもしれません。

大嶋先生の本の宣伝みたいになりましたが(笑)、何回読んでも毎回新しい発見があるのは、本の内容がスクリプトになっていて全く頭に入ってこないから。

今度の新刊もとても楽しみです。

本日のメタファー:マーライオン

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