昔、小学校の通学路に田んぼがあって、そこにたくさんのアメンボが泳いでいました。
泳いでいるといっても、彼らは水の上をスイスイと歩いていて、まるで魔法使いのようです。
「私も、いつか人に出来ないことを何か成し遂げられる人生になったらなあ」と思っていました。
それは、この先の自分の未来を憂いてかもしれないし、小さな片田舎にいる自分の将来がイメージ出来なかったから「何者かである自分」を心の支えにして生きたかったのかもしれない。
あの頃に願っていた願いは、今の私は大体は叶えてこれたと思っています。
それは自分の努力でというよりは、なんだか運良くタイミングに乗れてここまで運んできてもらったような感じです。
だから、私自身の感覚としては「努力していない」ので達成感がイマイチないし、なんならこの先も努力をせずまた良い波が来てそこにヒョイッと乗っていけたらなあなんて美味しいことを考えています。
でも、本当に私は努力を一切してこなかったのだろうか?
確かに、受験勉強はしたことがないし、就活もしたことがありません。
それでもなんとか今まで生きて来れたし、それで「不自由だ」と感じたことはありません。
ただ、私が欲しいのは努力で手に入るものではなくて、本来の自分が持っているポテンシャルを存分に活かせる環境だったのかもしれません。
いつも、何かに不満を持っていました。
「こんな田舎じゃなければ」とか、「もっと私に社交性があれば」とか「もっと裕福であれば」とか。
「家族がこんなんじゃなければ」とか。
いろんなことに不満を抱いていて、現状何も変えられない自分自身に腹が立っていた。
それなのに、何をするにも億劫になっていて、いざ行動しようと思っても体力がないから「また今度でいっか」と先延ばしにしてきたのです。
そんな人生だったから、恋愛も来るもの拒まずで本当に好きな人とは付き合うチャンスを逃してきたし、お金もたくさん稼いでいたのに結局一銭も残っていない。
「もっと先を見据えて行動しなさい」という母親の声が聞こえそうですが、「これは支配」と思って聞かないようにしていると、でもどんどん私の中に罪悪感が広がっていくのです。
「今すぐ何とかしないと、あんたは破滅する!」という母親のよく当たる予言のような声が頭上から聞こえてくるような気がして、「それも支配」と思って耳も目も塞ぐ。
すると私の母親は私の過去を漁って、私にダメ出しをする。
「あの時もこの時も、あんたはもっと頑張れば出来るんだから」と。
だから私はいつも過去の幻影に苦しめられていて、「何もできない完璧主義」になってしまっていた。
でも、いざ行動してみたら楽しいんですよ!
あの水面を歩くアメンボに憧れていた私のように、「できる未来」をイメージした時に広がるその世界に眩しさを覚えて「ああなりたいな」「こうなりたいな」と自由に夢を思い描いてみる。
母親の声が頭上から「そんなこと、あんたにはできない!」とか「もっとちゃんと現実を見据えて」と言ってくるけど、でも私は「これはあなたの人生なんかじゃない!」とちゃんと気づいて未来をイメージすると、やりたことがどんどん見えてくるのです。
私はいつも心のどこかで「母親から見た世界」を意識していました。
たとえば、彼氏から連絡が返って来ない時に「すぐ連絡を返さないなんて、あんたは大切にされていない」や、仕事が上手くいっていない時に「だからあんたが一人でやろうと思うと失敗する」などと様々な暗示が母親によって入れられて、それまでの私は構成されていた。
ほぼ「母親」からできていると思っていても間違いなかった。
でも、母親の様々な声を退けて出てきた私の本音は、「もうそれを必要としていない」ということだったので、私は思い切って母親の声を全部捨てて、自分がやりたいことだけを追いかけて生きるように自分に設定したのです。
そうした時に、確かにいろんな問題が浮上してきて「停滞しているなあ」と感じることはあった。
停滞していたし、「何もかも上手くいかなくて、もう死んでしまいたい」と思ったこともある。
「どうして私はいつもこうなんだろう」と、人生を投げ出してしまいたかった。
だけどそうしなかったのは、私に心がついていてくれたから。
心は私に言うのです。
「今、諦めても諦めなくても良いけれど、私はあなたが諦めなかった時の未来を知っているから、だから頑張れとも言えないけれど応援している」と。
心はさらに「私はあなたが今まで努力してきたことも知っているし、どれだけ上手くいかなくても投げ出さなかったことも知っている。そんな自分を恥じる必要はない」とも。
「恥」の感覚とは「罪悪感」よりも自分のメンタルに悪さをするという研究があります。
だからか、「罪悪感」を感じている時はそれでも何とかその罪悪感から逃れようと、現状を変える努力ができるのですが、「恥」の感覚は強烈に私を支配し、私を無価値で生きている必要がない人間だということを刻み込んでくるのです。
そんな時に「心よ!私のこの感覚は誰のもの?」と心に聞いてみると、心は「それは母親のものとあの人のもの」と答えます。
さらに心に「心よ!どうして私は生きるのが苦しいの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが努力しているのに報われない人生というものを入れられているから」と言ってきます。
「心よ!なぜ“報われない人生”だと入れられているの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが人一倍努力する才能があるから」と答えます。
私は、今まで努力したことがないと思っていました。
なのに、心は「あなたは努力してきた」と言うのです。
「心よ!私はどうして努力してきた感覚が私にはないの?」と聞いてみると、心は「それはあなたの母親があなたの努力の才能に嫉妬して潰してきたから」と言います。
「心よ!私は何に努力してきたの?」と聞くと、心は「あなたがこれまで生きてきたすべてのこと」と答えます。
私は、嫉妬されるものが本当に何もないと思っています。
学歴だって、職歴だってありません。
振り返ってみても、何も形に残ってないと思っていました。
けれど、私の母親はそんな私の努力を知っているから、私が自分の努力に気づかないように私の成功を常に破壊してきたのです。
私は、「何も残っていない」と思っているけれど、何も残っていないからまた新しい世界に挑戦していける。
私は、「誰とも長続きできる関係を構築できない」ことをコンプレックスに思っていたけれど、だからこそ新しい人に出会い、その知識を吸収して、今の私が作られている。
私は、今まで捨ててきたものを悔しむべきだろうか?と心に問いかけた時、心は優しい声で「あなたが捨ててきたものなど何もない。すべてはあたなに必要なものであって、何一つ今のあなたにはもう必要ないもの」と言います。
だから、私はこれからもたくさんのものを得ては、たくさんのものを捨てていくのだと、この未来を考えた時にイメージすると、何も捨てるのが怖くなくなる。
そうやって、「捨てる怖さがあるから一歩踏み出せなかった自分」に気づくのです。
何かを得たら「捨てなきゃいけない」と無自覚に思っていたけれど、何かを得た時にはすでに私は新しい自分へとバージョンアップしているから。
そんな私に今、必要なのものは、「ただそこにある満足感」を追い求めていくだけだと、私の心は言うのです。
(ナラティブです)
本日のメタファー:トンボ、あめんぼ
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