ある人が、こう言っていたんです。
「自分さえ、いなければ…」と。
自分のせいで相手の気分を害したり、余計なことをして人を嫌な気持ちにさせてしまうのが耐えられない。
だから、そんな自分を変えてほしいと仰ったんです。
なので、私は、その人に花火の筒の話をしたんです。
そして、あなたは目を閉じながら、瞼の裏にあの夜に見た大輪の花火の美しさを思い描けるでしょう。
そうやって、あなたは小さな頃、あの大きな花火の音が苦手だったのかもしれませんね。
だけど、煙火筒からヒュルルルと細い音を立てながら空へ昇っていった先でドカンと咲き誇るあの夜空の花は、毎日の生活で見るどのものよりも大きくて、私の胸の何かを鷲掴みにされるのです。
それから、あの大きな大輪の花火が咲くところをもっともっと見たくて、花火玉がこめられているまだ咲く前の煙火筒を、ワクワクした気持ちで眺めています。
すると、端から順に煙火筒に火がつけられて、そのたびに私はあの大きな、夜空が破裂するような音に縮こまるんだけれど、ドーン!と花開いた時に夜空いっぱいに広がって、やがてしだれていく光の滝を眺めていると、なぜかあの光がしだれるパチパチという音をずっと聞いていたい気持ちになっていきます。
そうして、繰り返し繰り返し夜空に上がる大きな花は、子どもの私の心にまで大輪の花を咲かせてくれるようで、変わり映えがないと思っていた日常と私の胸の中を、キラキラ輝くものに塗り替えてくれた気がします。
にもかかわらず、大きな花火を見てから数日経つと、いつの間にかまた元の日常に戻っていて、あの花火の煌めきも、花火が散った後の黄金色のチリチリと夜空に溶けていく光も、忘れてしまいます。
だけど、また夏になったら、あの川のほとりに大輪の花火を誰かと一緒に見に行こうと思って、だから私はそれまでは花火の感動を忘れていてもいいし、来年になったらあのドーン!と夜空に響き渡る大きな音に、今年よりも少し慣れているかもしれません。
そうすれば、私はまた新鮮な気持ちで花火を見ることができるし、花火を見て何度でもその大きさや色合いや煌めきに感動できるのです。
やがて、私は大人になってから、花火を見に行く機会がぐんと減ってしまって、夏の夜に家にいると、遠くの方で花火が上がる音が聞こえて、すぐにベランダに出て夜空を確認するんだけれど、私の家よりも大きいマンションに阻まれて、花火の姿は見えません。
それでも、窓の外からあのドーン!と夜空に響き渡る音を聞くと、なんだか胸が熱くなって、幼い頃に見たキラキラと輝く大輪の花火を思い出します。
そして、私の心の中の花火は、年月を重ねるごとにその色合いや煌めきや咲き誇り方にどんどん磨きがかかっていって、より美しい形へ、より美しい色へ、より美しい散り方へと変化していき、私の中を豊かにしてくれるんです。
だから、私はより私好みに美しくアップデートされていく私の中の花火を、いろんな角度から眺めてみることができます。
なぜなら、その色合いは年々ますます深くなり、色の数も増えていくので、まるで偏光ガラスや万華鏡をいろんな角度から見るように、下から横から眺めていて、するといつしか、あのドーン!という大きな音が気にならなくなっていたことにさえ気づかなかったんです。
こうして、私の中の花火は小さな音で咲いて、あれだけ熱かった熱も今や冷たくて、でもそれが私の心臓の音にピッタリとハマるので、あんなに大きな音でなくても私の心の中に美しさは残るんだ、と知りました。
でも、じゃあ、あんなに美しい花火を私も自分の手で作って、花火職人のように煙火筒に花火玉を詰めて、満天の星空に大輪の花を咲かせたいのか?というとそうではなかったので、本当は私だけの花を、家の窓辺の花瓶にそっと活けて眺めるだけで、私の心は豊かになるんだと思うんです。
そして、大きな花も美しいけれど、私は花火が散っていく間際の夜空に消える光の玉も美しいと思っていますし、窓辺に飾るカスミソウも好きなんです。
だって、あの白い小さな花を寄せ集めてみると、大輪の花に負けないぐらい立派で華やかな花束に変身するので、私はその花束を持った時に、包んであるセロハンにカシャカシャと触れるその音を聞くたび、背筋がピンと伸びるのです。
そうやって、まっすぐ背を伸ばして歩く私は、足を交差する感覚や、高いハイヒールを履いて爪先が地面につく感覚に注意を向けていると、まるで目の前に、本当は見えないけれど、まっすぐどこまでも伸びていく真っ白にキラキラ輝く絨毯が見えるようで、私はその見えない真っ白にキラキラ輝く1本の道を、丁寧に自分の足の感覚を意識しながら歩いていきます。
そうすると、自然と指先にも力が入り、全身に1本のまっすぐな棒が頭のてっぺんから爪先まで通っているような感覚になって、その感覚を強く感じれば感じるほど、私の足先からどんどん伸びていく真っ白にキラキラ輝く絨毯が、さらに向こうまで、もう私の視力で把握できないほど遠くまで、伸びていくのです。
やがて、まっしろに輝く絨毯が地平線の向こうに霞むと、その向こうからわずかに白く眩い光が太陽のように昇ってこようとしている場面に気がついて、私はコツコツとハイヒールが地面を鳴らす音を速めます。
そして、歩いても歩いても一向に白く眩く輝く太陽までの距離は縮まないんだけれど、その光が心なしか大きくなってきているような気がして、「あ、この太陽は空に昇るのではなくて、どんどん大きくなって、やがて空全体を覆うんだ」と気づいた時に、その太陽のような光のようなもののあたたかさを肌で感じることができるでしょう。
だから、たとえ眩しくて光から目を逸らしたとしても、私は太陽の位置が肌の感覚で分かるし、目の前に障害物が何もないことも知っているので、足元の絨毯の感覚をなぞって歩いていけば良いんです。
それから、歩くペースに合わせて速くなる呼吸や、肩の動きに合わせて、左右交互に前へ出す足のリズムもピッタリと噛み合ってきます。
そうやって、私は1本のまっすぐな棒のように、背筋の伸びを感じながら、光のあるほうへと歩くのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
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