お金に困りたくないって、たとえば収入のことについていつも頭を悩ませていたくないとか、支出が多すぎて足りるかどうか毎月やきもきしたくないとか、ある人はそんなお金の悩みが常に頭の中を占めていて、その悩みさえなければもっと楽に生きれるんじゃないかと思ったんです。
だから、その人が「お金」と思った時に思い出されたのは、実家の畑でした。
そして、その人は子どもの頃、おじいちゃんとおばあちゃんが野菜や果物を育てていた畑に行って、放課後に母親と一緒にバッタを捕まえていた時に、畑をぐるりと囲んでいる田んぼの苗が風にザザザザザッと揺れる音が、とても心地良かったことを覚えているんです。
それから、日が落ちるまで母親と一緒にバッタを探しては虫かごに入れていたのですが、その人は大人になった今、バッタはおろか虫さえも触れなくなってしまっていて、「あの頃はあんなに楽しく虫取りしていたのになあ」と思ったりして、田舎とは違うアスファルトの上を歩く靴底の感覚を感じながら、夜空の下を散歩するのです。
そうすると、田舎とは違うけれど、ここらへんでも夜になるとスズムシの声なんか聞こえるんだなあ、と思って、ふと散歩道の脇にある河をのぞいてみると、その河は真っ暗の夜をそのまま水面に映しだしているようで、眺めているとその黒さに吸い込まれそうになったんです。
だから、その真っ黒な河を見ていると足元がぐらっとするような感覚があったので、私は慌てて目の前に視線を戻すと、そこには都会の夜のライトが煌々とアスファルトを照らしていて、すぐそばの道路にはまだたくさんの車が走る音が聞こえているんです。
そして、私は夜のライトに照らされてどこかぬめっとしたアスファルトの上を靴音を響かせながら歩いていていると、そのアスファルトの固さが「私の地元とは違うなあ」という感覚を思い出させてくれます。
なので、私は小学生の頃にバッタを捕まえにいった畑で、春になるとつくしを摘んで持って帰ると母がつくしのお浸しを作ってくれたこと、そして秋になると家族総出で柿とザクロを収穫すること、それから、春と秋の2回は友達とキンカンをお腹いっぱい食べたことなど思い出して、あの頃は「楽しい」と意識していなかったけれど実は楽しかったんだなあなんて気づいて、じゃあ今の私は?と、ポツポツと道路脇に灯る街灯のオレンジの光の数を数えながら歩きます。
そうして、いくつ目かの街灯を通り過ぎた時に大通りに出て、深夜も近いというのにトラックや軽自動車などのさまざまな大きさと色のたくさんの車が、私の脇を風をうならせながら通り過ぎていくのです。
そうやって、私は当てもなく散歩をしているので、ただ気の向くままにあの角を曲がって、あの角は曲がらずに真っ直ぐ行って、なんとなく暗く街灯が少なく見える通りよりも、明るく車の交通量が多い道を選びながら、夜風の冷たさを肌に感じて歩いていきます。
やがて、家からどれぐらい離れたところまで来たのだろう?大きな通りの向こうに、たくさんの街灯に照らされた大きな橋が2本あって、その橋の下にはあの夜をそのまま映し出したような真っ黒い河がゴウゴウとぬめりながら流れています。
そして、私の目にはその街灯に照らされてオレンジ色に光る橋が、その下の黒く淀む河との対比でとても美しく見えるので、私もその美しい風景の一部になりたいと思って、その橋の上を歩き始めると、橋の下からは河のゴウゴウとうねる音が先ほどよりもクリアに大きく聞こえてきて、それが足元で大きく激しくうねるから、なんだか私は宙を歩いているような気分になってきたんです。
けれど、ポツポツと等間隔に灯されたオレンジの街灯と橋と、その脇の道路を走る車のライトが昼間とは違った世界のように美しいので、足元の河のうねりや車の走る音がどれだけ近くから大きく聞こえてこようとも、私はこのオレンジの光をずっと眺めていたいと思って、橋の真ん中で足を止めて防護柵に背を預けると、車が橋を渡るたびに背中に振動がビリビリと伝わってきます。
それから、走る車のライトをぼんやりと眺めていると、やがて点が線になって見えてくるようになってきたので、何台も続けて車が通ったり、二車線の向こうとこっちと両方に何台もの車が通ると、そのライトの点が幾筋もの線を描いていきます。
そして、車によってライトの色がオレンジだったり白だったり、同じオレンジでも微妙に違うので、幾筋も交錯して入り乱れる車のライトは、その走行音とともに向こうからあっちへと近づいて遠ざかって消えていくのです。
そうやって、いろんな車の走る音や橋の揺れる振動を聞いていると、足元からゴウゴウと河の流れる音が聞こえてきてもなんだか1人じゃないような気がして、再び足に力が入った私は、橋の残り半分の向こう側へと歩き始めるんです。
やがて、橋を渡り切った時に、そこには、橋を渡る前や橋の上を歩いている時に見ていたようなオレンジの光がなくて、足元の河と同じ夜の闇で塗ったように真っ黒い街が広がっていたんだけれど、目を凝らして良く見てみると、風に揺れる木の影や道路を転がる小石が見えてきます。
それから、私の背後や隣を相変わらずひっきりなしに車が通っていくので、車が通り過ぎる時の生暖かいあの風を感じながら、私は橋を下りた後の真っ暗な闇の世界へと向かってさらに歩いていきます。
なぜなら、真っ暗なようでそこにはちゃんと「ある」し、光に照らされていなくても、昼間と同じようにそのものはそこに存在しているから、だから真っ暗で見えないなら、私はさっきまでよりも慎重に注意深く足元に目を凝らしながら、じゃりじゃりと整備されていないアスファルトの上をその居心地の悪さを楽しみながら歩いていくんです。
そして、きっと、いくらか真っ暗な中を歩いて行った先に、また大通りに出て、あの明るいオレンジの街灯が等間隔に並んでいる明るい場所へ出るんだと、私は知っているのでしょう。
なので、私は迷わず真っ暗な住宅街やビルの隙間をぬって歩いて、その時々で、夜の闇ではっきりとは見えないけれど、ビルの周りを彩っているであろう花壇の香りを嗅ぎ、生垣の横を歩く時にその葉を手でさらさらとなぞりながら歩いたりしながら、闇の中に響く私の足音を恥じらうことなくまっすぐと歩くんです。
そうすると、どこまでも真っ暗だと思っていた道路の先に少しずつあのオレンジ色の光が見えてきたので、「ああ、あそこを目指せばいいのか」とだんだんとその光は前へ進むごとに大きくなってきて、それにつれて私の歩幅も大きくなって、夜はあたたかい夜もあるんだということを思い出せるのでしょう。
そして、そのオレンジの光を見ていると思い出すのが、あのピンク色のサイダーなんです。
そう、こうして今、あのペットボトルに入ったピンク色の飲み物を思い出すのは、母親が私のために買ってきてくれたものだからなのか、そうではないのか、私には分かりませんが、でもたしかにあのペットボトルの蓋を開けた時にプシュッと鳴るあの心地良い音が頭の中で繰り返されるのです。
それから私は、なぜ母親が私のためにあのアセロラジュースをたくさん買ってきてくれて、冷蔵庫にたくさん入れられていたのかを思い出した時に、私は熱いものが胸の底から湧き出るような感覚を感じたんです。
でも、実家の飴色の冷蔵庫を思い出した時に、もう今の私にはアセロラジュースは必要ないこと、そして、今の私の冷蔵庫には、実家の冷蔵庫とは全く違うものが入っていることを知っているのです。
だから、私は夏の夜になると部屋に響く冷蔵庫のブーンという音を聞くたびに、実家で眠れずに過ごしていたあの夜を思い出しては、「この天井は実家とは違う」という点をいくつも見つけます。
そして、朝になってやっぱり実家とは違う間取りで違う壁紙の部屋で起きると、私は母親のことではなく「今日の仕事は何をしようかな」と思いながら、ふかふかの布団の手触りを感じて目覚めます。
そうやって、あれから行く日も行く日も過ごしてきたので、すっかり私は今の自分の部屋の天井や壁の色が自分に馴染んでいて、アセロラジュースのことをすっかり忘れていたんです。
やがて、私は大人になって、子どもの時のことをあまり思い出さなくなったのですが、たまに思い出すあの畑の中で、畑のやわらかい土を踏んだ時の足の裏の感触が懐かしくなったりするんだけれど、今の私は好きな音楽をスマホですぐに聴けるんです。
それから、イヤホンをして好きな音楽を聴きながら目を閉じて、やわらかい布団の上でゴロゴロしていると、まるで畑の土のようなやわらかさのようでもあって、きっと私はやわらかくて手触りが良いものが好きなんだなあと、そんなことをぼんやりと考えながら、好きな音楽とともに眠りに落ちていくのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
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