※哲学対話の反省点ですが、個人を攻撃しているわけではありません。
私のファシリテーターとしての未熟さです。
先日、第2回トーラスブックスさんでの哲学対話を開催いたしました。
今回は私のミスで問いが2つになってしまったのですが、2つ対話できて良かった!とのお声もいただき、私の方こそ大変感謝でございます。
さて、今回は【相手に委ねるのが難しいのはなぜか?委ねられる人は、どうしているのか?】と、【なぜ人は当たりが強い言葉を言っちゃうんだろう?】でした。
哲学対話のファシリテーターをしてきて難しいと感じているのは、「どこから対話に介入していいのか?」ということです。
私のブログの読者さんは99%大嶋先生の書籍を読んでらっしゃる方だと思いますので、「委ねる」についてはプロフェッショナルな方ばかりだと思います。
コントロールせず無意識に委ねた時の美しさたるや。
オンラインとオフラインの両方で哲学対話をしてみて、なぜか圧倒的にオフライン(対面)の方が強い言葉を使っちゃう人が多いんですよね。
これってたまたまかもしれないですが、今のところオンラインで6回開催してきて、強いネガティブな言葉を発言する人っていなかったんですよ。
そこの違いも気になっています。
「強い言葉」「ネガティブ」自体が主観ですが、要は「他人が聞いたら不快に感じる言葉」です。
オフライン1回目では、正直「さすがにこれは傷つく人がいる(というか聞いていた私も傷ついた)」ので、参加者さんの発表に介入して救済しました。
(救済になっていたかどうかは置いといて、見過ごさずにはいました)
先日の第2回オフラインの時には、発言者の方自身が「これは聞いていて嫌な気持ちになるかもしれない…」と前置きされてから発言されたのですが、たしかに当事者の方にとってはグサッとくる言葉だったのだと思う。
私も冷や冷やして、介入してフォローするかを悩みました。
しかし、テーマが「委ねる」ということもあり、また前回に比べて明らかに「不快だ!」と思うほどでもなかったが故に、今回は介入せずにしばらく静観していたんです。
もしかしたら、私の代わりに誰かが私が考えていることを発言してくれるかもしれない、とも期待しながら…。
結局、私が望んでいた「回収」には至らず対話が進んだところで、主催であるおすいちさんが完全に私が考えていたことを代弁して発言してくださった。
私は「やられた!」と思った。
おすいちさんがあのちょっと強い言葉をフォローしようと思ったのかどうかは分かりませんが、あの発言をきれいにまとめたことを話し終えた後、ある参加者さんがリアクションくださった。
おすいちさんの発言を聞いて、生き生きと輝きを取り戻して発言してくださった。
私はそれを聞いて「ああ、やっぱりすぐにフォローした方が良かったんだな…」と反省しました。
人は、私と違うことを考えていると思っています。
だけど、ある程度の人は私と同じ考えや感じ方をしているとも思っています。
だから、哲学対話のファシリテーターとして、自分の不快感には敏感になってすぐ反応しないと、せっかくの「安心できる場」がそうではなくなってしまうかもしれない。
誰かを傷つけてしまうことに関してはことさら敏感になって、きちんと対応しないといけないんだと今回の流れを経て心に決めました。
だけど、勘違いしてほしくないのは、「強い言葉を使ってしまった人が悪い」というわけではありません。
長年、人と話す仕事をしてきて、そしてメンタルのことをたくさん勉強してきて思うのが、「言っちゃいけない」ことを「言わない!」と抑制をかけるのはかなり大変だということ。
訓練している私でも、言っちゃいけない言葉を完全に止めるのは難しい時もあります。
これは大嶋先生の仰るGABA受容体がダウンレギュレーションを起こして抑制が効かなくなって暴走している状態だと思います。
哲学対話の別の効果として私が思うのは、みんなの話を聞いて「今はこの発言をすべき時ではない」と抑制をかける訓練にもなるのではないかということです。
「これを言いたいけど、場にそぐわない発言だ」とみんなの発言を聞いて、場に対話の流れを委ねていると面白いことが起こるかもしれない!
私がよく哲学対話で口を挟みたくなるのが、「それはある研究では…」という論文を引き合いに出した知識。
この前のオンライン哲学対話でも、「人が悪い方にばかり注目するのは人間の生存本能ですよ!」と言いたくて仕方ありませんでした(笑)
でも、哲学対話って正解を出す場ではない。
これは前回のオフライン哲学対話である方が仰ったことでもあるんだけれど、「AIに聞いたらすぐに答が分かることを、人間があーでもないこーでもないって遠回りして対話する面白さ」でもあるんですよね。
傷つくことでハッと目が覚める時もあると思うので、「優しい言葉だけを使って話しましょう!」と言うと胡散臭さを感じる人もいるかもしれない。
しかし、私が過去に参加してきた哲学対話で、私の発言に対して「それは違うと思います」とキッパリばっさり別の方に否定された時に感じたあの痛みは数日引きずってしまったなあとも思い出す。
反対意見を言ってはいけないわけではないし、「自分は違うと思う」という発言があるからこそ対話が深まっていくのだと考えています。
いろんな哲学対話の形があってもいいとも思っています。
だけど、私らしい哲学対話を実践してくとしたら、私は「人前で話すことが苦手」だと思っている人にこそ参加してほしいと思っている。
そうすると、私のように繊細すぎる人は1回の否定で「怖いからもう発言しないでおこう…」と考えてしまうと思う。
言葉って、本当に難しい。
本人に傷つける意志がなかったとしても、聞いた側が傷つくかもしれない。
また、傷つけないためのボキャブラリーもたくさん持っておかないといけないとも思う。
守るばかりでは対話が深くならないと思う一方で、傷つけるつもりがなかった人の言葉が刃になってしまわないような配慮が必要なのだろう。
ファシリテーターはそこの采配がとくに難しいと感じている。
こればかりは恋愛と同じで、いくら経験を積んでも参加している人が変わればその経験は当てにならないものなんだと思っています。
みんながみんな「傷ついた!」と反論できればいいのだけれど、そうではない人がほとんどなのではないだろうかとも感じています・
とくに哲学対話という場であれば、売り言葉に買い言葉になってしまわないようにグッと我慢してしまったりもする。
改めてファシリテーターの立ち位置について考えさせれらた回でした。
果たして、すべての人の安心安全を守ることができるのか?


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