まちごこち文庫で【みんなの「わがまま」入門】という本を半年ほど前に借りまして、すごく良かったんですよ。
日本人はとくに社会運動に嫌悪感を示すらしいのですが、たしかに私も「デモ」って聞くとあまりいいイメージがありません。
それってなぜなのかというと、日本は「みんな平等に!」精神が強いかららしい。
社会運動でなくても、学校や職場で個人的な不満や主張をする人に対して、「私も我慢してるのに、わがまま言うなんてずるい!」って思うみたいです。
みんな「ふつう」を頑張って生きている。
同じクラスの中にいて、同じ制服を着ていて、一見大きな違いがあるような集団に見えなくても、ひとり一人の客観的な情報を集めていくと「ふつう」なんかないというのがわかってくる。
それなのに、私はずっと「みんなのように”ふつう”に生きたい!」と願って生きてきた。
そう、私はみんなが私のように、こんなに辛い思いをしているなんて思ってなかったんですよね。
私だけが孤独で惨めで、誰とも仲良くなれない。
「みんなは毎日楽しく生きていて、ずるい!」とずっと思っていました。
そんな私は人に不平不満だらけで、だから人間関係もまったく上手くいかない。
でも、実は「あの人ずるい!」と思って主張したくなるこの私の”わがまま”は、私だけのものではないのかもしれない、とこの本を読んで思うのです。
以前、大嶋先生が『無意識の旅』で質問コーナーをされていた時、自分が質問をしなくても誰かが私と同じような質問をしてくださって「おー!ありがとう!!」と思うことがよくありました。
「自分で先生に質問して解決しなきゃ!」とやらなくても、誰かが勝手に(笑)私の代わりに質問をしてくれる。
そんな経験があったから「自分の悩みって、みんなと同じなのかも?」と気づきました。
この本にも同じようなことが書かれていて、「わがまま」というのはその人だけのものなのではなく、実はみんなが我慢していることだったり、もやもやしていることの可能性が高いということ。
そして、個人的な「わがまま」に思える不平不満や主張は、実は社会を変える小さなデモなのではないかと。
社会活動と聞くと、なんだか自分には無関係だと敬遠したくなる気持ちが出てきますが、「政治」や「社会」の問題と直接関わりがなさそうな個人的なモヤモヤを解決することこそが、社会に関わることであり、政治に働きかける「芽」であるとこの本には書かれています。
私は神経症的傾向が強いタイプなので、毎日自分のことだけで精一杯で、政治や社会のことにまで気が回りません。
そんな自分を恥ずかしく思っています。
だけど、直接でなくても個人的なもやもやを解決するために「わがまま」を主張することは、同時に私以外の誰かの悩みを解決することになるかもしれないし、それが回り回って社会が変わるきっかけになるかもしれない。
そう考えると、「わがまま」も悪くないな!どんどん言っていこう!という気持ちになったんです。
それで、【わがまま哲学対話】なるものをしよう!と半年前から考えていたのですが、それはまた後日お話したいと思います。
で、今回は超個人的なわがままは本当に社会活動になるのか?を考えてみようと思いまして。
世の中に不平不満しかない私ですが、その中でも政治や社会とかけ離れている私の超個人的なモヤモヤと言えば「SNSで何気なく投稿したことにマウント返信されると腹が立つ」というのがあります!
「そんなんわかっとんねん!」というコメントがつくのがほんっとーーーに嫌で(笑)
神経症的傾向が強い私は、ちょっとのことですぐ心を揺さぶられるので、「SNSなんかもうやめてやるー!」と思うことが何度も。
それをこの本の1時間目の話に当てはめて考えてみます。
私が「SNSでマウント取るなや!」ともやもやしているのは、実は「ふつう」と「平等」の呪いに掛かっているからそう考えてしまうのだと考える。
これを『ふつう幻想』と呼ぶのだそうです。
「ふつう」は、人の話には共感すべきだろう。
「ふつう」は人が話している時は、自分の話を挟むべきじゃないだろう。
「ふつう」は知らない人にそんな口のきき方しないだろう。
そんな「ふつうはこうあるべき」が私の中でたくさん出てきます。
そして、私の中の「ふつう」の基準に当てはまらないマウントを取ってくる人は、逸脱したずるい自己中な人間だと自動的に設定してしまっているんですよね。
自分以外の他人には礼儀正しくあらねばならない、という常識が私にはあります。
だから、私はいきなり相手が嫌がるような発言をしないと自分で思っています。
この私のもやもやを解消しようと思ったら、「もっとみんな人の気持ちを考えて発言しようよ!」になる。
それって、この本の1時間目のワークの「相手の背景を考える」ということと同じことなのかもしれない。
先ほど述べたように、一見同じクラスの集団で同じような制服を着ていたとしても、よくよくその人の家庭環境などを調べていくと、誰一人として同じ人はいないし、みんな異質だということがわかる。
それなのに、相手は自分と同じ人間だというだけで、相手も自分と同じ背景を持っていて同じ考えであろうと考えてしまう。
だから、ちゃんと話を聞く必要があるんですよね。
それなのに、そこをすっ飛ばして「なんでお前はそうやねん!」という「ふつう」の悪口やアドバイスをしてしまう。
そんなことを考えると、私も私にマウントを取ってくる人も同じなのかもしれない。
相手の背景を考えてないという点で。
友達と一緒に哲学対話に参加すると、驚くことがあります。
「え!そんなこと考えてたんだ」って。
私は相手の何を見て、今まで一緒にいたんだろうって自分が恥ずかしくなります。
どうして人は人の話を聞かないんだろう。
いや、私に限っては、他人を理解するのではなく、どうして「私を理解して!」という方に必死になってしまうんだろう。
私がやっているPodcastの1回目で、ちょうどそんな話をしました。
ここでは、自分の安全を確保したいからわかってほしいのではないか?という話をしています。
もしかして防衛本能で、人の話ではなく自分の話を優先して聞いてほしいと思うのかな?
私の安全性が不確かだと、いつまでも死の危機にさらされてしまうことになる。
そうか、心に傷があるから、私はマウントに過剰に怯えて怒りや恐怖を感じてしまうのかもしれない。
(トラウマで解離している記憶が、目の前のなんでもないことに結びついてしまって常に死の危機を感じている状態になっている)
そんなことを考えながら、半年前に読んだばっかりなのに内容をさっぱり覚えてなくて、これから読み直していきます。
デュアルコーディングとアクティブリコールをしないといけないですね!


コメント