PR
スポンサーリンク

神の愛よりも無意識の愛。

ひとりごと
スポンサーリンク

私はカラーセラピーの資格を持っています。

たとえば、黒を選びがちな人は人間関係を避ける傾向にあるかもしれないし、心が疲れているかもしれません。

だけど、同時に黒色は「高級感」や「強い自我」を表したりもしています。

私は、いつからか黒を避けるようになりました。

それまでは、狂ったように全身真っ黒の服に身を包んでいたのですが、ある時を境に黒を全く着なくなりました。

それは、1つには、黒を着なくなったことで、当時好きだった人に「最近良い感じだね!」と褒められたから。

黒を着ていると何も言われないんだけど、黒以外の服を着ていると必ずうれしそうに声を掛けられました。

それから、黒を選ばなくなったのですが、なんとその好きな人は支配者でした。

その人に入れられていた「支配の内容」は、いつも「火車」が出てきます。

当時、どれだけ掘り下げても、その火車の示す意味は分からなかったのですが、きっと「家計簿」のことなんだと思っています。

それを心のどこかで受け入れられなかったから、知らないふり分からないふりをしていました。

私は、その好きな人のために仕事を休むことなく出勤して働いて、稼いでいました。

私のマネージャーだったので、とにかく認められたかった。

だけど、そこには「売上を上げて認められる」以外に、何かあったのだろうか?

数年後に再会しましたが、性格は当時よりおっとり優しくなっていてめちゃくちゃ嬉しかったものの、決定的に何かが違う。

私はいつも、その人の表面だけを見て好きになっていたのかもしれません。

また、ある時に、恋に落ちた人がいました。

今から10年ほど前の話なのですが、当時恋人になりかけている人がいたのに、どうしようもなくその人に惹かれて、結局恋人と別れてその人と付き合うことを選択しました。

心に聞くを出来るようになってから聞いてみると、支配者でした…。

私は、ずっとその人に憧れていました。

会話にトゲがなくコミュニケーション能力が高く、行動力も高い。

そして、穏やかな彼の人柄に多くの人が集まってきて、週末には立ち飲み屋に集まったりする生活を送っている、バックパッカーみたいな人でした。

私はその人に、人生で初めて心療内科に連れて行ってもらったので、ある意味で私の恩人です。

だけど、その人にはきっと「罪悪感」を入れられていて、私は長年その人のことを忘れられませんでした。

その前に10年以上好きだった人がいるのですが、その人も支配者でした。

家族以外でそんなにも支配者がいるのかどうかは、心の言うままなので真実は分かりませんが、ナラティブ的に考えた時に、「支配者」という存在は私に執着心や依存心を与えてきます。

これは、人によって支配の内容が違うので、一概に「こう」だとは言えませんが、私の場合は「この人に愛されないと生きていけない!」という焦燥感と執着心から、その人のことで頭がいっぱいになります。

「愛」というのは幻想だと、大嶋先生の多くの書籍で書かれていますね。

「愛」が4つの種類に分けられて、友愛・親子愛・恋愛・無償の愛でそれぞれ役割や形が違ってきます。

いつから私は、すべての人に「無償の愛」を持って接しないと、愛してもらえないと錯覚していたのだろうか。

私は、人を神化していて、自分のことも神化していて、それで「愛とは無条件に与え合うもの」と心のどこかで思っていたのかもしれません。

神の愛を両親に求めていたし、好きな人にも求めていた。

「どんな自分であっても愛してほしい」と思う反面、「こんな自分では愛されない」と思っていました。

私は、好きな人の姿に「神のあるべき姿」を投影していて、そして救いを求めていたのです。

そうすると、関係に上下が出来てしまって、「神の愛」を得られなかった私は、自分が神になることで癒されようとしたのです。

「どんなあなたでも愛するよ」と。

これは、一般的に見たら気持ち悪いのではないかと思います。

相手は別に、私に神の愛を求めているわけではなかったでしょう。

むしろ、支配者なので、「自分が神」で絶対的存在で、「愛を与える存在」なのです。

圧倒的に正しいのです。

神様は間違えることはありません。

だけど、私は人間だから間違えもするし、好き嫌いもあります。

そんな自分と神を比べて、私は自分を責めるのです。

「どうして出来ないんだ!」と、自分を責めて、人を愛せるように自分を作り変えようとしていました。

でも、オリジナルの私の気持ちは「人のことより自分のこと」です。

他人はどうでも良くて、自分の幸せだけが大事で、自分のことだけ考えていたいのです。

「どうして自分のことだけを考えていたら、自分を責める言葉が聞こえてくるの?」というと、そこには「自分よりも他人を優先して生きる美しい物語」が刷り込まれていたからです。

私の夢は、誰かを守って死ぬことだったし、誰かが泣いていたら全力で怒ることだった。

だけど、それは不特定多数の「誰か」ではなくて、私の場合、大元の支配者である「母親」のためだったのです。

母親を守って死ぬこと、母親が傷ついていたら私が代わりに怒っていたこと。

私はいつも母親を助けたくて、母親以外の人に敵意を向けては、母親と自分とのしがらみを強固させてしまっていたのです。

支配者は、私に孤独感を入れてきます。

「支配者を愛することによって、他者と上手く交わることが出来ず、隔離される」孤独感です。

そうやって孤独を味わえば味わうほど、より支配者の愛を求めて彷徨います。

「私を愛してくれる人は誰?」と、たくさんの人の間を渡り歩きながら、だけど、「愛」はいつもどんな時も見捨てずに私のそばにずっと居てくれた無意識だったのです。

無意識は、私の過去の過ちを許してくれるし、私が意見を変えても許してくれるし、私が何をしても応援してくれます。

無意識の愛をそこに感じた時、「愛してもらわねばならない!」という恐怖心から解き放たれるようなのです。

「愛」は自分の中にこそある、というのはどこかの啓発本のようですが、無意識の愛を感じた時に「自分の可能性」も同時に感じられるのだと思います。

 

本日のメタファー:赤と青と黒

コメント

タイトルとURLをコピーしました