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ベルのような恋愛に憧れる幼少期。

ひとりごと
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私ははっきりと『美女と野獣』のストーリーを覚えていませんが、昔からディズニーではこのお話が一番好きでした。

多分、自分よりも少し大人っぽいとベルのことを感じていて、あの黄色のドレスや踊る食器たちも好きなんです。

だけど一番は、あの明るく美しく聡明なベルに(物語を覚えていないので、あくまで私のイメージのベルです)愛された野獣に一番嫉妬していたのです。

私は、自分と野獣の姿を重ねていて「こんな自分を愛してくれる素敵な王子様はいないだろうか」とずっと考えていたんです。

いつか素敵な王子様が現れて、私の醜い顔の下にある美しい心を見出してくれて見初めてくれるのではないか…。

しかし、私の恋愛というのはもう散々で、この幼い頃の、簡単に言うと「モテたい」という願望は叶ったんです。
交際を申し込まれることはなぜか多いし、プロポーズも何度もされました。

だけども、私は自分の手で全てを破壊し尽くしてきたのです。
そして「誰にも愛されない自分」を証明してきたわけなのです。

どうして誰にも愛されない自分を証明する必要があったのかというと、そこには「母親の愛」から逃れられない諦めがあったのかもしれません。

どのような形であっても、どのような私であっても、あなたは変わらずに愛してくれる?ということを証明したかったのは、どうしても逃れられない母親の手から逃れることを諦めたいがため。

もう努力しても無理だ…と思っては、「もしかしたら、ここに愛があるのかもしれない!」と思って、次の恋へと縋りつくけれど、そこには破壊と絶望しかなくて、お互いに惨めな気持ちになるしかない状態になってしまっていました。

もしかしたら私の破壊欲動と性欲動はそこにあって、「あのバラが枯れるこのわずかな時間に愛を育めなかったら…」という悲恋の物語を繰り返すことで、「手に入れられない絶望」に快感を覚えているのかもしれない。

私の大きなトラウマに「失恋のトラウマ」があったのですが、私は自分の恋バナをしたりするのが本当に苦手で、まさか恋愛でトラウマなんてできないと思っていましたし、恋愛のトラウマのある自分を恥じていました。

なぜ恥じていたのか?というのは、私が「たかが恋愛」と思っていたからかもしれません。

仕事や生活のことならともかく、当時の私には「恋愛=遊び」というか、暇な人や心に余裕がある人が楽しむものみたいなところがあったのかもしれません。

だけど恋愛こそとても重要なコミュニケーションであり、そこが上手くいかないことによって「あ、自分のトラウマが浮き彫りになった!」という感覚がありました。

「恋愛」ってなんだかチャラチャラしている響きだと思っていたのは、その根底に私の大きなトラウマが隠れていて、そのトラウマを隠すために「恋愛なんて」という軽視する気持ちがあったのでしょう。

そして、恋愛を軽視しているわりには生活のすべてが恋愛に支配されていて、恋愛で落ち込むと仕事もやるべきことも手につかなくなり、一日中家の中でぼーっと過ごしていることも多かったんです。

「愛されることがすべて」「愛されないなら死んでしまった方が良い」というのは、誰のために?
私は一体誰に愛されたいのか分かっていなかったのです。

だから、ベルと野獣のように「真実の愛」を見つけて、そこからストーリーが始まることに夢を見て、「じゃあ、私も自分の物語を始めよう!」と意気込むのはいいけれど、そこにあるのは破壊と絶望のみ。

「どうしてこうなっちゃうんだろう…」と思いつつも、まだ傷が癒えない間に次の恋が始まり…としている間に、どんどんダミーの傷跡が増えていき、根本にある「失恋のトラウマ」が癒えなくなってしまったのです。

では、私の場合の根本の「失恋のトラウマ」は結局何だったのかというと、それは「恋に憧れるのは母親の影響」だったのかもしれません。
(書いていてギャー!と思っています)

そう、私は母親から繰り返し繰り返し「結婚しなければ良かった」と聞かされていました。

母親はとても美人で、きっとモテていたのでしょう。
だけど、私は醜い外見だからモテる可能性も少ないと思っていて、だから「母親のようにモテたい」と思って、誰彼構わずロマンスを求めて付き合った結果、好きでもない男性に振られては心の傷が増えていき、やがてトラウマの再上演ばかりの人生になってしまったわけなのです。
(今、これを書いていて一番驚いているのは、たぶん私です)

だから自分が「本当に好き」という人が分からなくて、好きじゃない相手を一生懸命愛して、そして相手にも愛されたかったから良い子を演じたりして…だけどそれってきっと、見当違いの努力だったんです。

もっとちゃんと私がすべき努力なのは「母親の支配から逃れて自分らしく生きること」だったのかもしれません。

掃除や部屋の片づけ、やるべきことを出来ずにダラダラしてしまうのは、自分がダメだからではなく「母親のイメージした私」のバックアップデータに引っ張られて、新しい自分に更新できなかったからかもしれないし、もしかしたら片づけや掃除を出来ないことで「母親の望む姿」を演じていたのかもしれない。

「心よ、母親の望む姿って何?」と聞いてみると、心は「それはあなたが母親よりも劣っていることで嫉妬を回避して、自分らしく生きることを放棄すること」と言ってきます。

「心よ、私にとっての“自分らしく生きる”ってどういうこと?」と聞いてみると、心は「それはあなたが母親の目を逃れて自由になった時、あなたは父親も妹も気にせず過ごすことができる。それは“他人に支配されない”のが普通なのではなく、あなたが“自分らしさ”と考えたときに自分が思う自由とは違う生き方をして、あなた自身があなたを認めること」と言ってきます。

「心よ、私は私をどう認めたらいいの?何を認めたらいいの?」と聞いてみると、心は「あなたは“他の人とは違う”ということです」

「心よ、私は他の人と何が違うの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが他人基準で見た時に“あそこが違う、ここが一緒”と比べてしまうかもしれませんが、本当の違いというのは目に見えない世界の話で、そこには愛とか自由とかあるんだけれど、あなたは他の人とは“違う”と無意識で認めた時に、私たちはあなたの“違い”をそこに見つける」と言ってきます。

結局、“違い”というのはあるようでないかもしれないし、あったとしても、まず“他の人とは違う”と自分で認めた時に、そこから自分の中で“他の人との違い”が生まれてくるのかもしれません。

母親の中にあるバックアップデータを更新して自分の新しい姿を上書き保存する方法は、もしかしたら“違いを認める”なのかもしれないですね。

メタファー:一輪の枯れていく青いバラ、美女と野獣

こちらは赤いバラですが、このバラに憧れていましたね~。

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