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ダメ出ししてくる脳内の母親

ひとりごと
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まれにこのブログを読んでくださっている方から「福本さん、大丈夫ですか?」というお声をいただくのですが、1行1行すべて心に聞いたそのままを書き記しているので、私であって私ではない物語を書いています。
(この文章さえも「心に聞く」を使って書いています)

つまり、「ナラティブ」です。

私たちはストーリーテラーで、物語を作るのが得意です。
放っておくと勝手に脳内で物語を作り始めてしまいます。
(鈴木祐著『無(最高の状態)』)

それが自分の自信や行動に繋がる物語だったら良いのですが、自分の行動を制限してしまう物語をたくさん持っていると、動きたくても動けなくなってしまいます。

たとえば、最近ブログの更新さえも滞ってしまっていた私ですが、半分趣味のようなこの「心に聞く」ブログを書くのを控えて「他の仕事を早く終わらさなきゃ!」と思えば思うほど、何にもできなくなっていってしまいます。

そして、「やらなきゃ、やらなきゃ」ということで頭がいっぱいなのに体が動かず、どんどん「好きなこと」や「やりたいこと」さえも見失っていってしまいます。

だから、私は「やりたいことができない!」という症状の時は、なるべくすべてを差し置いて自分の「心地良い!」と思う感覚を優先することにしています。

つまり、ダラダラして「心地良い!」と感じるのならそれが最優先であり、そこに罪悪感を感じる必要はないのです。

私のブログやSNS更新は、誰かに強制させられているものではありませんし、お金をいただいているわけでもありません。
だけど、なぜか更新しない日が続いてしまうと、どんどん罪悪感が重く自分にのしかかってきます。
すると、どんどんHPを開くのも億劫になっていき、現実から目を逸らすようにダラダラしてしまいます。

この時の私は、「ダラダラするのが心地悪い」と思っているわけなのです。

毎日、自分が感じる「心地良い/不快」の基準は変化します。

なので、昨日は「快」だと思っていたものが、今日は「不快」だったりするのです。
でも、我々の脳はなるべく考える負担を減らすために、勝手に一般化してしまっていたりもするのです。

だから、その都度自分自身に「これは今、快だと感じている?」と問いかけていく必要があります。

「ダウト」するですね。

「本当にそう思っているのか?」と自分自身の気持ちをダウトして主観を外していきます。
すると、本当の自分の気持ちが見えてきます。

あれだけ嫌だと思っていたものでも、「本当にそれをするのが嫌だと思っている?」と自分の気持ちにダウトしてみた時に、「あ!人の目を気にしていたから億劫になっていたんだ!」ということに気づいたりします。

また、「やらなきゃ…」と思っていつまでも手につかない仕事が山積みの時に、「私は本当にそれを“やらなきゃ”と思っている?」とダウトしてみます。
すると、「やらなきゃとは思っているけれど、手につかないのは母親にいつも「早くやりなさい!」と急かされていたから動けなくなる」という過去の記憶が出てきたりします。

そう、知らないうちに目の前で起こっていることに、過去の幻影を重ねてしまっているのです。

そうすると、現実には何も危機が起こっていないのに、「今、危険が迫っている!」と勝手に身構えてしまっていて、それで思い通り動けなくなってしまっていたりします。

大嶋先生は、この「動けなくなる」症状に、さまざまな暗示を解く暗示を教えてくださっています。

私の中で一番効果あったなあというのは、「逆説」ですね。

たとえば、動けなくなってしまっている時の私の脳内と言うのは、「早くやらないと今日も日が暮れてしまう!」とか「こんなことも出来ないなんて、不誠実で人間失格だ」といった悪魔の囁きがたくさん聞こえてくるのです。
(この場合の“悪魔の囁き”というのは、誘惑ではなく私を貶める声です)

そんな怖い声がたくさん脳内で響いている時に、逆説を使ってみます。

「動かないと大変になる!」が悪魔の声だとすると、逆説を使って「あなたは今、動けないほど疲れているんだね!」と声を掛けてみます。

「人の信頼を裏切る信用ならない自分」というワードが浮かんできたら、「昔と違って自分を大切にできてすごいじゃない!」と思ってみます。

私の中でさまざまな汚い言葉や罵りの言葉が浮かんで頭の中を占めてしまって、人が怖くなってしまって結局動けなくなってしまうのであれば、「本当の私は何を望んでいるのかな?」と心に聞いて確認してみます。

すると、この罵詈雑言が浮かんでくるのは「母親の愛」だと心は教えてくれます。

母親が、私が世の中に出ても困らないように、たくさんの私を罵る言葉を使って私を正しい人間にしようと頑張ってくれたのです。

その母親の頑張りは、今の私にとってはただの「支配」でしかありません。

それを言われて努力できる自分であるのなら、母親の愛の鞭というのは必要だったのかもしれませんが、今も当時も私はそれを「うわ!気持ち悪い!」と思っているのです。

それなのに、いつまで経っても母親の気持ち悪い愛から逃れられないのは、「母親にしか愛されない」とどこかで思っているし、「母親にさえも愛されない」という卑屈な自分が顔を出すから。

「愛」って何だっけ?と、その度に分からなくなってしまいます。

人を愛するのは良いことだと思って、人を好きになろうと努力してきたけれど、嫌悪感が勝ってしまっていたのは、これも母親の愛。

「あなたみたいな醜い人間が人を愛しても嫌われて惨めな目に遭うだけだから、やめときなさい!」と言っている母親の顔が浮かんできます。

だから、私は人の愛を受け取れなかったし、人はすべて「敵」で「モンスター」なのでやっつけなきゃいけない対象でした。

「私は本当はどうしたいの?」と心に聞いてみると、心は「あなたはあなたのままでいい」と教えてくれます。

「心よ、本来の私が分からないんだけど」と聞いてみると、心は「あなたは1人であり1人でありません」と教えてくれます。

人間関係が苦手だともがいて凹んでいたあの頃、私は目の前にいる誰かではなくて、ずっと母親に愛してほしかった。

そのことに気づいてから、私は母親を投影することをやめられたのです。

「あの人」は母親ではない。

私はずっとギャーギャーギャー!と泣き喚いている母親を見るのが辛かったのだけれど、本当に助けてほしかったのは私だったのです。

目の前にいる人が私の「味方」であり母親ではないと認識できた時、世界はなんて優しい人たちであふれてるんだろうと、そんなことを思って泣いたのです。

 

本日のメタファー:地元の堤防に掛かっている橋

(その他参考文献)

私の一番大好きな本『それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも?』は、私の人生を大きく変えた1冊です。

「本当かよ、俺!」とダウトする話は『無意識さんの力で無敵に生きる』の“無意識を起動する方法その2”です。

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