昔、まだ私が占いに傾倒していた頃、パワーストーンブレスレッドをひたすら制作していた時期があります。
ブレスレットって、作るのがめちゃくちゃ簡単なんですよね。
大体どれぐらいの長さにするか決めて、そこにお気に入りの石を通していってブレスレットを作る。
私は昔から、パワーストーン(石)が好きでした。
それは自分への願掛けもあったかもしれないし、またはただ単にキラキラ輝く宝石が好きだから集めていただけでもあります。
特にタイガーアイという石が好きでした。
いや、キャッツアイもフローライトも好きでした。
百貨店で母親に買ってもらった小さい石の詰め合わせを、後生大事に持っていた記憶があります。
いつしか私の中で「石なんて」という気持ちに変わったのは、パワーストーンを持っていても現状が変わらないし、むしろ悪化してるんじゃないか?という嘆きからだったのかもしれません。
大阪で一人暮しをしていた頃に働いていた職場で、ある時ミスを連発してしまい、普段失敗をしない私のミスはその後2週間、失敗続きでした。
見かねた先輩が「あのパワーストーン屋さんでブレスレット作ったら、運が上がったよ!」ということを教えてくれたので、少々高いお値段でしたが買いに行きました。
そこから、私は人生2回目のパワーストーンにどっぷりとハマる人生でした。
ただ単に何かにしがみつきたっかたのかもしれません。
しがみついて安心できる場所が欲しかったのかもしれません。
当時の私は友人は多かったものの、恋愛は浮気し浮気され。親とはほぼ絶縁状態。毎日死ぬことしか考えていなかったのです。
「救い」と言えば立派に聞こえたかもしれませんが、ただ何かにしがみついて「安心」を得たいだけという執着だったと思います。
「安心」は執着では得られません。
執着すればするほど、安心から遠ざかっていく感覚があります。
なぜなら、しがみつくことは愛ではないから。
しがみついてまで欲しい安心は、ハンドルを放すことで手に入れられる「無意識に委ねる」という方法だったんです。
しがみつくということは、自分でコントールしようと懸命になっていたのだと思います。
仕事でミスが続いていたから「運を上げたい」と思い、自分で「良い運にコントロールしよう」としていた。
でも、この場合「良い運にしたくない!」「もう絶対、失敗したくない!」と思えば思うほど、同じ失敗を繰り返してしまうのです。
恋愛もそうです。
「愛されたい!」と思えば思うほど、相手をコントロールしたくなってきます。
「どうしてあの人は〇〇をしてくれないんだろう」と、自分基準の愛を求めてしまいます。
だけど、「〇〇してほしい」と相手に頼めば頼むほど相手への要求はエスカレートしていくし、全く満たされない自分、むしろより枯渇していく自分を感じていくのです。
なぜなら、そこに「愛」を感じなかったから。
「愛」を簡単に感じようと思えば、きっとそのしがみついてコントロールしようとしているハンドルを手放すことなんだと気づくまでに、かなりの失敗と年月を重ねてきました。
心の声が聞けてからも、中指ビンゴの反応をしっかりと感じられても、私はそれらを信用していませんでした。
いいえ、半信半疑で良いのですが、「そんな訳ないじゃん!」と思って、自分の思う意識の方の意見を採用すると、以前よりも「ガーン!」ということが何度も起こるのです。
心に聞けるようになる前なら、こんなにダメージを受けることはなかったのに…といつも思っていました。
でも、きっとそれは無意識からの「自分でコントロールするのはもう辞めていい」というメッセージだったのかもしれません。
「ガーン!」という大きなショックを受けないと、私はずっと「ハンドルを握りつつけるのはものすごく辛いししんどいけど、手放せない…」「手放すのが怖い…」と思っていたから。
無意識の計らいは意識で判断できないぐらいスケールが大きく無限の可能性を秘めているので、簡単に「こういうことだから」と一言で片づけてしまうことは野暮かもしれません。
だけど、無意識はいつでも私たちの味方であり、何があっても裏切らないし、いつも私たちの知らないところで助けてくれているのです。
その助けに気づかなかったとしても、無意識はいつでも自由になる方へと案内してくれようとしています。
たとえその無意識の計らいに気づてあげられなかったとしても、無意識に「なんでこんなことしたのよ!」と怒ったとしても、無意識は全部「御意」と言って、私の望みを叶えてくれるのかもしれません。
ちなみに無意識に願いを叶えてもらおうと思ったら、「心よ、〇〇を叶えて」とお願いすると、私の場合高確率で願いごとが叶ってきました。
だけど、途中で心に「〇〇を叶えて」とお願いしなくなったのには理由があります。
一つは、その願いごとを叶えると別の不都合が生じて、また心にお願いしないといけなくなるから。
無意識は、私が予想していたのと全然違う方法で、もしくは想像していたナナメ上の方向から、願いを叶えてくれます。
すると、そこに本来なかった痛みや苦痛が生じていたのかもしれない…。
これが心にお願いしなくなった二つ目の理由です。
まあ、実際はどうなのか分かりませんが、その後は全部ひっくるめて「心よ、私を助けて」「心よ、私を幸せにして」なんて頼んでいましたが、今はもうそれすらもしていません。
だって、もう私の「無意識」を信頼しているので、頼む必要がなくなったのです。
何があっても、どんな辛いことがあったとしても、そこに無意識の何か意図が含まれていて、私を導いてくれているのかもしれない、と…。
そうすると、苦難を苦難とさえ思わなくなってきたのかもしれない。
ある人が、「辛いと思うのもその人の自由、楽しむのもその人の自由」というようなことを言っていたと思います。
物事は捉え方によって、幸不幸が変わってくるはずです。
本日のメタファー:数珠、パワーストーン
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