ある男性が、「お金に困っているわけではないんだけれど、もう少し増えないかなあ」とポツリと呟きました。
そして、その男性は桜並木のある一本の桜の、太い幹の前に佇んでいるのですが、頭上からちらちらと美しい薄桃色の花びらが舞い散っていても、そんなことには一切気に留めず、じーっとスマートフォンを見つめています。
それから、男性は深く長い溜息を1つ吐きました。
やがて、口を開いた男性は、「実はね、僕の実家はね、お金がまったくなかったんだ」と昔話をし始めたのですが、その男性の周囲には人っ子一人見当たらず、ただただザザザザー…と時折吹く強い風が男性の声をかき消したり、男性の服や前髪をはためかせたりして、いたずらをするのです。
しかし、男性は目の前に誰もいないのに、まるで誰かに語りかけるように、優しい口調で身振り手振りをしながら、舞い散る桜吹雪の中で見えない誰かに一生懸命話しかけています。
そうすると、一匹のリスが男性の足元にピョコンと寄って来たので、それに気づいた男性は身をかがめて、よりますます優しい声で語りかけます。
そうすることで、まるでリスが熱心に自分の話に興味を持って聞いてくれている1人の聴衆のように、男性は自分の生い立ちをリスに話していて、リスが男性の話に飽きたのかな?と思った時は、軽くリスの背中に触れて、そのふかふかな毛並みを撫でるのです。
こうして、美しい桜並木が満開なのに、男性はなぜか下ばかりを向いていて、一向にその薄い桃色の花びらが散る様子を見ることもなく、背中に1枚、2枚、3枚…とだんだんと桜の花びらが積もっていきます。
そして、高校生の時の自分の話までくると一旦休憩にしようと思って、男性は大きく伸びをしながら、同時に「ん~!」と溜息のような深呼吸のような声を出してみます。
かくして、ビックリしたリスは一瞬飛び上がって、ピャーッ!と草むらの中に逃げていってしまって、それを見た男性もビックリして、体を伸び切らす前に途中で止めたんです。
それから、そーっと草むらの中をうかがってみると、背の高い先の尖った草がほんのわずかに揺れています。
さらに、草むらの中からガサゴソと何か生き物が動く音も聞こえてきます。
なので、男性は息をひそめて、その生き物が動く気配を邪魔しないようにと、生き物の正体がわかるまでじっ…と待つことにしました。
しかし、そんな時に限って、いきなり男性の背後を大型のバイクが大きな音を立てて通り過ぎていったので、「なんだコイツは!」と思って男性は振り返ってその姿を確認しようとしたのですが、バイクの人物はフルフェイスを被っていたので、そいつの顔を確認できなかったんです。
だから、「顔が分からないなら、しょーがないか」と思って、遠ざかっていくバイクの音を背中で聞きながら、「あの体格なら男かな」とかなんとなくぼんやり考えました。
それから、自分もバイクが大好きで、バイクに毎日乗っていたこと、自分の愛車で夕暮れの海にカモメを見に行ったり、夏の山の木陰と日に照らされた熱い道路、遠くの知らない街まで買い物に来たこと、そんないろんな思い出が、今まで忘れていたのに一気に記憶がよみがえってきたようで、そのそれぞれの季節の温度を肌に思い出すのです。
そうやって、バイクととも過ごした春の花の香りや、夏の太陽のじりじりとした陽射し、秋の涼しい風、冬の凍えるような指先を記憶の中で感じながら、ようやく男性は頭上に絶え間なく振る桜の花びらに気づきました。
そして、男性よりもはるかに長い年月を生きてきたであろう桜の太い幹から出ているたくさんの枝は、男性の背丈よりももっともっと高くて、どちらかというと人よりも背の高い男性をすっぽりとその枝で覆い尽くしているので、男性はその桜の下に立った時に、いつもよりも葉擦れが大きく深く聞こえるようだったんです。
なので、太陽の光に目を細めながら見上げた桜の木は、下ばかりを見て歩いていた男性にとって、ある畏怖の念を感じるような、その枝や葉にすべて身をあずけてみても、桜の木にとったらなんでもないことなんじゃないかと、そう思ったんです。
すると、ふっと肩の力が抜けて、その大きく空に広がっていく枝葉を眺めていると、葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日がどこか懐かしくて、さらに目を細めます。
そう、なぜなら、その木漏れ日は、あの日母に公園で読んでもらったあの物語を思い出させるのです。
こうして、あの時の母の声色を思い出すと、それが桜の舞い散る音に重なって、やさしくやさしく自分の胸の中に降り積もっていくので、私の胸の中はいつしか薄い桃色で満たされていきました。
それから、胸の中が桃色のあたたかいような熱いような何かで満たされ切ってしまうと、今度は爪先や指先からあたたかくなっていく感覚があって、私は「何が起こっているんだろう?」と自分の体の先端を確認してみると、そこから薄っすらときれいな薄い桃色に染まっていっているのです。
だから、私は桃色に染まっていく自分の体を見ながら、あのグラスにジュースを注ぐ時のようなコポコポという音を思い出したんです。
そして、桃色に染まっていく自分の体も、桃色に染まったところから炭酸の泡のようなものがコポコポと音を立てながら泡立っているような気がして、透明なガラスのように透き通っていく自分の手足が自分のものでないような、美術品のような美しいものに固く変わっていくような感覚があります。
やがて、すっかり私の体が透明な容器に入れ替わった時に、体のあちこちからコポコポと炭酸が湧き上がっていきている感覚を感じながら、私は透明な自分の腕を太陽の光へとかざしてみると、光は私の腕を通り抜けて、キラキラと腕の中の泡を輝かせているので「とてもきれいだ」と思ったんです。
すると、透き通ったガラスの腕の向こうに見える太陽が、肉眼で見るよりもその姿をはっきりと直視できることに気づいたので、自分の腕を遮光板代わりにして太陽を見ていると、たまに視界にちらちらと桜の花びら舞ってきて視界を遮るので、そのたびに私はふうっと自分の腕に息を吹きかけて花びらを落とします。
ともあれ、ふうっと息を吹きかけて飛んでいった桜の花びらはまた美しくて、太陽とどちらが美しいかと問われても、自分の透き通った泡立つ腕も美しいし、いずれにせよ、美しいものはいつまでも眺めていたいよなあと思いながら、私は自分の固く、そして少しぬるい透明のガラスのような自分の腕を撫でるのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れていきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなっていきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がスッキリと目覚めます。
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桜の花びらを「桜色」と言わずに「桃色」と言っているのは、無意識の采配です。たぶん。
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