昔、宿題をする代わりに延々と国語辞典を読んでいました。
国語辞典には季語や常用漢字以外の漢字とかさまざまなことが載っていて、家で会話のない私にとっては「新しいことを吸収するのは楽しい!」という楽しみの一つでした。
ボキャブラリーが少ないので「小説を書けない!」と思って、あ行から順に国語辞典を丸写ししていたりもしました。
私が国語辞典から学んだことはたくさんあるのですが、その内の一つが「虹の色」です。
虹の色の覚え方は「あだきみああむ」で、「赤・橙・黄色・緑・青・藍・紫」の順番です。
私はこれを知っているのが当たり前だと思っていたので、みんなも「あだきみああむ」を知っているものだと思っていたのです。
だけど、大人になってからカラーセラピーの講座を受けた時に、20人いた生徒の中の誰一人として「あだきみああむ」を知らなかったことに衝撃を受けました。
もしかしたら知っていて「知らない」と言っていたのかもしれませんが、カラーセラピーの先生も「知らないのが常識」と仰っていたので、恐らく知らない人の方が多数派なのでしょう。
そこから「自分が知っていることは全ての人が知っていると思わない」という私の中の常識が増えました。
無意識の内に「自分と他人は一緒」と思っていて、「なぜ知らないの!」と怒りが湧いてきたりもしていたのですが、もし、それが知能の違いであって「知らないことが世の中の常識」である時、私は怒って感情を揺さぶられて知能を下げられていたのです。
実は、最近「多様性を認められないのは知能が低い」という研究結果があることを知りました。
心は確かに「あの人よりあなたの数字は上!」というふうに言ってはくるけれど、本当は上か下かは関係ないんですよね。
以前、大嶋先生のブログで「松竹梅」の話がありましたが、自分がどのカテゴリーに入るのかが大事なんです。
松の人が梅の人にいくら「分かってもらおう!」と必死に説明したとしても、相手の中にない文化を受け入れるのは非常に困難です。
反対に、梅の人の文化を松の人は疑問に思うかもしれないけれど、そこで「知能の高低差」を考えた時に「上から見る地上の景色はよく見える」から、松の人はまだ梅の人の言っていることを理解することができるのかもしれません。
知能が低いことを批判しているわけではありません。
2年前の知能検査で、私は自分の中で一番自信があったワーキングメモリの知能指数が100なかったことに衝撃を受けました。
(知能指数は100が平均です)
それまで自分は「記憶力が良い!」と思っていたのに、全く自信がなかった言語理解や知的推理が平均以上なことに驚きました。
その時の検査してくれた環境や医師がちょっと最悪だったので(うるさいし壁は薄いしトイレの個室みたいなところだったので)、もう一度測り直したい!とも思うのですが、「左ききのエレン」の神谷さんが「クソみたいな日にいいもん作るのがプロだ」と言っていたので、そんな環境でも力を発揮できないものはできないのでしょう。
(実際、知能検査での数値は調子が良い時と悪い時の差、レンジも記載されています)
この知能検査からも分かるように、自分が「普通だ」と思っていたことって実は「平均以上」だったので、だからみんな私の悩みを理解してくれず「あなたは才能に恵まれている」と言われていたのか…と今さらながら気づきます。
私の努力は、私が神化したみんなをより越えたい!と思って勝手に作り上げたイメージでしかなく、周囲を理想の神化している私はいつも孤独でした。
最近文庫化した『あなたを疲れさせるあの人を「どうでもいいや」と思えるようになる本』では、他人を神聖化している人は親のことも神聖化してると書かれています。
なぜかというと、親に褒めてもらったり優しくしてもらったことがないから親=罰を与える存在として無意識に認識してしまっているから。
たしかに心当たりはあります。
何をやっても私は心のどこかで「人から怒られるかも…」といつもビクビク怯えていました。
たとえば、会社にメールを送る時にも「返信が怖い…」と思い何時間もメールを開封できなかったりします。
ただ休み希望のメールを送った時でさえ「休むなって言われるかも…」と心拍数がどんどん上がり、緊張して体が硬直します。
でも、実際は周囲に「あなたはもう少し休んでください」と思われていたとか。
私が何か言ったりしたりしたら必ず批判される…という恐怖があるから、常に周囲が認める「良い子」でいなければいけないと思っていました。
だけど、周囲から評価の言葉がちっとももらえない時に「私はこんなに頑張っているのにどうして!」という怒りにまみれています。
また他の経験では、私は人気商売をしていたので、とある非公式の掲示板に評判や評価を書かれたりします。
もうそれが恐ろしく恐ろしくて…きっと私はボロカス書かれているのだろうと思い込んでいて、掲示板を見ている人に「何か私の悪いことが書かれているでしょう?」と聞いてみると「いや、一切書かれていません!むしろ良いことしか書かれていません!」と聞きます。
常に「誰かに裁かれる」と怯えているから、その裏で人への怒りが物凄く溜まっていってしまう。
「私は〇〇しているのに、どうして他の人はしないの!」とか「私は〇〇に気を遣っているのに、なんでみんな分からないの!」と言った具合に、誰も私に命令してきたわけではないのに、私が勝手にやっていることなのに、無意識に「みんな私と同じことを考えている」と思ってしまっていたのです。
これは、幼少期に常に苦しんでいる母親の気持ちを想像しながら生きてきた人に共通する思考回路です。
相手と一心同体のように考えてしまうのは、そうやって人の気持ちを考えて愛着の対象を探していたり、孤独感を感じないようにするためなのです。
「自分は人と違って当たり前」「人と違うからこそ面白い」と認めた時に、はじめて親の世界から飛び立つことが出来るのかもしれません。
それまで感じていた親の影響を自分の中から取り除いてみると、「母親と違う自分」がどんどん出てきます。
そこで「母親め~」と怒りが出てくるのならば、まだ母親と一心同体の箇所が残ってしまっているのかもしれません。
母親と一心同体が悪いのではありません。
問題は、それで「自分が苦しい思いをしている」というところにあります。
本日のメタファー:虹
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