スケート場に行くと誰もいなくて、「ラッキー!貸し切りだ!」と張り切ってスケート靴の紐をギュッと固く縛ります。
それからスケートをしに来るのは数年ぶりで、数年前に来た時は子供や大人や大勢の人がリンクの上を所狭しと滑っていることと、あちこちから聞こえてくる人々の声に酔ってしまって、早々と帰ってしまったことを思い出しました。
そして、あれから数年間は「スケートをしよう!」とも思い出さなかったのですが、先日ふと「滑りたい!」と思い立って、休日には必ず来ようと楽しみにしていました。
すると、まるで私のこの期待通りなのかそうでないのか、スケートリンクの上には誰もいなくて、まだ傷1つついていない真っ新な氷がキラキラと天井のライトを照らしています。
そして、それを見た私は「この氷をいかに傷つけずに滑ること」と「私の滑った軌跡だけが氷の上に残る喜び」の両方の考えが頭に浮かんできたのですが、それらの声を無視して、さっさとスケートリンクに向かってリンク脇の入り口にドサッと荷物を置きました。
さて、いざ「滑ろう!」と思って氷にそーっと足を乗せてみようとするのですが、表面が滑らかに輝いている氷はなんだか得体の知れないものに足を置くようで、「つるりと転んでしまったらどうしよう」とあの感情が私を侵食していきます。
しかし、そうなるとせっかく楽しみにしてきたのに、「やっぱりやめよう…」とひと滑りもせずに帰ってしまうことになりそうだと、それも悔しいので、あの声が私の中を支配し切ってしまう前に「えいやっ!」と片足を鏡のような氷の上に下ろします。
それから、片足を乗せても大丈夫だと確認すると、息をぎゅっと止めて反対側の足も氷の上に置こうとした時に、リンク入り口のゲートを掴む手に力を込めたので、少し軋む音が聞こえてきました。
そして、その音を聞いて驚いて危うくバランスを崩しそうになったのだけれど、私の足は自分が思っているよりもしっかりと重力の通りに氷に足をつけているのです。
そうやって、自分が氷の上に「きちんと」バランスを取って立っていることを体で確認すると、さあ!滑ってみよう!とそろそろと片足を動かしてみようとするのですが、足元の氷を見ると「私が滑ることが出来るのか?」とまたあの感情が腹の底から湧き上がってきそうになります。
けれど、あの感情が胸に達するまでに感覚をお腹から頭へ、視界へと移動させて前方に集中することで、あの感情は波のようにまた腹の底にひっこんでいくので、そうなると今さらこのスケート場に流行りの音楽が流れていることに気づきました。
すると、音楽のリズムを頭の中でリフレインしている内に、だんだんと楽しい気持ちを取り戻してきたので、なんだかスイスイで滑れるような自信が漲ってきます。
なので、自分の中から聞こえてくるあの声が聞こえてこなくなったのにも気づかずに、私はゆっくりと滑り出して、まわりの景色が私の動きとともに変化していく様子がとても楽しい。
そしてそれは、私が小さい頃に行ったスキー場の真っ白いゲレンデでの出来事と重なるのです。
そう、あれは春だったか冬だったか、家族で毎年行っていたスキー場で、私はスキー選手だった父にパラレルの滑り方を教えてもらっていたのですが、運動音痴だった私はなかなか思うように体を動かすことができなくて、私を追い越して滑っていく人が雪を削る音が爽快で、いつか私もあの人たちのようにかっこよく滑ることができたらなあと眺めていました。
なぜなら、私も誰かに自分の滑りを見てもらって、「素敵だ!」と憧れて欲しかったからかもしれませんし、そうではないかもしれません。
だから、私は自分の両手のストックを一生懸命に動かしてゆるい傾斜の雪山を上ったり、傾斜のない平坦な雪道を腕の力だけで進もうと踏ん張ったりしたのですが、どうしてみんな、あんなに美しく速く滑ることができるのだろうとその頃の私には分からなかったのです。
それから年月を重ねて、大人になっていくにつれてスキーのストックを握る機会もスキーウェアを着ることも減ってきたのですが、雪の上を滑るジャッジャッというあの音が時折なつかしく感じられるのです。
そうやって、子供から大人になるんだなあと思ったり、こうやって親元から離れていくんだなあと感じたり、いろんなことをあの季節になるたびに思うのだけれど、変わらないのは、毎年見ていた一面真っ白の銀世界が美しく私の原風景になっているということなのです。
たとえば、ゲレンデに大音量で流れていた当時のヒット曲が向こうの山にもこだまにして幾重にも聞こえる様子や、リフトから降りる際に一度大きくガタン!と振動する音が、今の私にもリアルに思い出すことができます。
いや、スキーウェアのゴツゴツと動きにくさや、スキー靴で足首が固定されて感じる不自由さが、今の私にどんなことを残してくれたのかと言うと、「チクチクした服はもう着たくない!」ということだったりします。
なぜ、私がそんなことを今でも気にしているのか、今でもそのことを大事にして生活しているのかと言えば、あの時に繰り返し繰り返し感じていたあの感情を、チクチクした服を着ることで寒さをやわらげることが分かっていても、私はもうあの時に着ていたあの服を自ら選んで着ることはないだろうと言うこと。
そして、それがきっと子供の頃の自分を大切にするということであるのかもしれないし、そうではないのかもしれないけれど、私が母に繰り返し言われたあの言いつけをもう守らなくても良いのだということを今さら気づいたりもするのです。
だからと言って、すぐに何かが変わるのではないだろうけれど、いつかまた銀世界を見に行きたいと思っていて、今度はごわごわしていたりチクチクしていたりする服を着ることなく、自分の好きな肌触りのさらさらした服を着て、あの美しい世界へと旅をしに行くつもりです。
それから、記憶の中と同じように、雪が太陽に反射するとキラキラと輝いて見えるのかを確認したいのです。
とういうのは、私があの頃に感じていた感覚は本当にそうだったのか、それとも記憶の中で何かが育っていったのかを知りたくて、私以外の誰の声も聞こえないところへ行って、自分の体温や自分の呼吸の速さで確かめたいのです。
そうやって、たった1人あの銀世界に立った時に四方八方から吹いてくる吹雪は、やっぱりキラキラして見えるのかそうでないのか、吹雪の音はやっぱり大きいのかそれほどでもないのか、私以外に誰もいない世界では私の鼓動が大きく聞こえるのかそうでないのか、私が感じることがより一層クリアに感じられるのかそうでないのか、確かめたいと思っています。
それから、もし1人の世界で感じることがより大きく感じられるとしたら、また世界の見え方が変わるのどうか、それともそのまま同じように見えるのだろうか。
すると、もし1人の世界で聞こえることがより大きく聞こえるのなら、私はどんな音を聞きたいと思うのだろうか。
そして、もし1人の世界で見えること、聞こえること、私が感じることを誰かに話したい!と思ったなら、誰に話そうか。
とにかく、こうやっていろんなことが雪崩のように私の頭に流れ込んできて、あれもしなきゃこれも考えなきゃと思ったりもしますが、ただ私はスケートリンクでもスキー場でも、自分の滑る速度で変化していく景色を楽しむことができるのです。
そうして、いつも歩いているよりも速いスピードで変化してく景色と、いつもは聞こえない速いスピードで風を切る音に慣れた頃、私の鼓動の音も次第にゆっくりと刻むようになって、歩いている時と同じ速度に戻ります。
だから、私はどれだけ速く滑ってもそれを楽しむことが出来るんだと知ることができて、さらに滑ることを自分1人の楽しみとして感じられるのかもしれません。
それはつまり、滑っている誰かを見た時の憧れは、今の私の中で消化されて、いつかあの人を私のスピードで追い越せるのかもしれません。
そうすれば、私の目の前には誰もいなくなるので、私の目の前に広がる雪景色を大きくターンしたり小さくターンしたりしながら好きなシュプールを描くことができて、ターンするたびに雪を削るリズムも一定になってくるかもしれません。
そして、ゲレンデを好きな心地良い速度で降りてきて、私が作ったシュプールを見上げた時に、「ああ、あんな高いところを下りてきたんだ」とそんな自分自身にいつも感動するのです。
ひとつ、爽やかな空気が頭に流れてきます。
ふたつ、身体がだんだんと軽くなってきます。
みっつ、大きく深呼吸をして頭がすっきりと目覚めます。
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このスクリプトを書いている時にちょっと嫌な出来事があったのですが、脳がダメージを受けなかった気がします。
このスクリプトが本当に効いていたのかは分かりませんが…。
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