私が思い出すのはいつも、父方の祖父母と妹と休日に海遊館に出掛けた思い出です。
その帰り道に、糖尿病の祖父が低血糖発作を起こして、私が楽しみに取っておいたワタパチを食べてしまいました。
子供の私にとってそれは、恨みに似た悲しみの感情でした。
「私の気持ちを蔑ろにされた!」という怒りで、その後数十年苦しみんだのです。
ワタパチはそれ以来食べていません。
こうやって、ほんの些細なことで心の傷は作り上げられて、今の私を作っていきます。
「今の私が本当の私じゃない!」と感じているならば、それは心の傷で本来の自分を偽ってしまっているのかもしれません。
もしそうなら、じゃあ心の傷を今すぐ取ったらいいの?というと、私は「時にかなって美しい」だと思っています。
何事にも順序があるのかもしれません。
どれだけ私が「もうこんな自分は嫌だ!」と思っていても、いきなりすべての心の傷を癒すのは至難の業のような気がしています。
なぜなら、今までの人生、ずっとその心の傷と一緒に生きてきたから。
言わばその“相棒”を失ってしまうことで、バランスを崩してしまったりもします。
でも、「もうこんな自分が嫌だ!」と思った時、それは何かしらの無意識さんの合図であって、「あなたはもう十分がんばったから」というメッセージなのかもしれません。
十分苦しんで、いろんな苦難を乗り越えてきたからこそ、もう「手放していいよ」と言われているのだと。
最近、鈴木祐さんの『無(最高の状態)』を読んでいます。
その中で、「悪法」という人間が持つストーリーの話が出てきます。
「悪法」というのは、大嶋メソッドで言うところの「ドミナントストーリー」です。
人は18の悪法に縛られて生きているけれど(人によって無自覚に信じている悪法の種類は違います)、実は今私たちを苦しめている「悪法」は、過去に私たちの身を守ってきてくれていたんですよ。
そう、心の傷も一緒で、今の自分にはただただ苦しい生き方なんだけど、過去の自分にとっては「それがあったから守られてきた」という無意識の采配だったわけです。
でも、今、目の前に“危機”がないから、その「悪法」があることで何か不自由になってしまっている。
そう考えると、「当時の自分はこんな不自由なルールの中でよく生きていたな!」と思えます。
生き延びるために、私たちの無意識はさまざまな無限の知恵を授けてくれます。
たとえば、先日の『人生改革レッスン』でも言っていたのですが、私は最近なんだか寝付きが悪いです。
ほんの1か月前までは21時半に寝て午前3時に起きるという生活を送っていたのに、近頃は布団に入っても3時間ぐらい目が冴えたままで、いつの間にか気絶したように眠っています。
もしこれが、私の過去の心の傷で眠れなくなっているとしたら、どんな心の傷で眠れなくなっているの?と探っていきます。
そうすると、心がくれた答というのは「あなたは眠らないことで無意識を起動している」と教えてくれるのです。
通常、人間の体というのは睡眠が足りていないと胃腸が悪くなったり、体の痛みを感じやすくなったり、感情も不安定になってしまいます。
前日よりも少し就寝時間が遅くなっただけで、体調が悪くなってしまいます。
なのに、私の無意識は「眠らないことで無意識を起動しているだと!」ということを言ってきます。
「心よ、どうして無意識を起動するのに睡眠を犠牲にするの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが睡眠を犠牲にすることで、自分を蔑ろにしている愚かさに気づくため」と言ってきます。
ええ…と困惑しながらも、「心よ、今の私は自分を蔑ろにしているの?」と聞くと(あれ?冒頭で自分が蔑ろにされた話をしていたなあ)、心は「あなたは自分を蔑ろにされているということに気づくべきだ」なんて言ってきます。
心に「心よ、それは本当に心の声ですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたの母親があなたを憐れんでいます」なんて言ってきます。
「心よ、それはどういうこと?」と聞いてみたら、心は「それはあなたが母親に対して“何でも言うことを聞く良い子”になろうとしているということ」と言います。
つまり、私は知らず知らずのうちに母親の望む“子供”になろうとしてしまっているから、夜に眠れない!となっているようなのです。
でも、それは眠れない原因が母親にあるのではなくて、眠らないことで母親の支配から逃れようとしているわけなんですね。
そういえば私は小学生の頃、長野にスキーに行くために、まったく眠くない昼間に眠らされていました。
奈良から長野は車で9時間ぐらい掛かるので、深夜に出発します。
そのために昼間に眠っておいて、長野に着いた時に寝不足にならないようにするのです。
だけど、私は一切眠れなかったのです。
長野に向かう車の中でもずっと起きていました。
「眠らなければいけない場面で眠れない恐怖」というのは、不眠の方々にはよく分かると思うのですが、眠れないことほどストレスなことはありません。
私にとって「眠る」というのは「しなければならないこと」です。
お風呂に入るのも長年苦手だったのですが、お風呂に入るのも「しなければならないこと」でしたね。
宿題も「しなければならないこと」。
誰かに優しくするのも、そう「しなければならないこと」。
こうやって自分の中にさまざまな「しなければならないこと」が増えていって、私は私本来の「心地良さ」を失っていきます。
それが「母親に蔑ろにされている」ということなのです。
それに気づけると「~べき」を捨てていけるのかもしれません。
自分の中の「~べき」をどんどん捨てていくと、見えてくる世界は自由で色とりどりの世界です。
それまでは「しなければならない」「~べき」ばかりで埋め尽くされていて、灰色の世界が自分の中に広がっていました。
そう、ミヒャエル・エンデの『モモ』の時間泥棒のような、何の味気もない色味なのです。
ある研究結果で、人は「効率の良さ」を求めれば求めるほど創造力が下がっていくし、生産性も落ちるという話を聞いたことがあります。
私もその昔信じていたのですが、時間を効率的に使えれば使えるほど、人生に充実感を感じられると思っていたのですが、そうじゃなかったのです。
(詳しくは、鈴木祐さんの『YOUE TIME』を読んでみてください)
心は、それを知っていたんですね。
「味気なさ」の理屈を知っていたわけではないけれど、「~べき」で動けば動くほど人生がどんどんつまらなくなってしまって、万能感に満ち満ちてしまいます。
(大嶋先生の『「やる気が出ない」が一瞬で消える方法』もぜひ読んでみてください)
私はそんな自分が大嫌いだったんです。
「~すべき」「これをしたら幸せになれる」「これをしなければ不幸になる」そんなルールがどんどん自分の中に敷かれていって、私は自分を見失っていってしまいます。
すべきことは分かるのに、自分のことが分からない。
だから、「人の気持ちは分からない。そして、自分の気持ちも分からない」と唱えるのかもしれません。
人の作ったルールで生きてしまっていないか?
自分の中の無意識に声を傾けてみると、「あなたは何でも出来るし、何でもやめることができる」という優しい言葉が聞こえてきます。
でも、私の意識は「私はこれを捨てられない!」と思うし、「捨てたら大変なことになる!」と喚くのです。
そんな時に「本当に?」とダウトしてみます。
すると、心の奥底から「私は本当は捨てたいと思っている」という本音が見えるかもしれないし、「私はそんなことよりアレが気になる」という別の視点が顔を出すかもしれません。
「私は、私の居心地の良さだけを信じて生きる!」と思った時に、私の心は夏休みに行った志賀高原の緑の絨毯のような山の斜面のイメージを出してきます。
冬にはスキー場のリフトになる夏の山のリフトに乗って、眼下の緑を見渡した時に、「自分は自然の前ではなんてちっぽけな存在なんだ」ということを思い出します。
私が悩んでいたお金や人間関係や将来のことは、緑の高原を前にした時に「あなた本当に悩んでる?」と問いかけてくるのです。
私はきっと、本当は何も悩んでいなくて、ただ「悩んでいるふり」をして母親に憐れんでもらいたかっただけなのかもしれない。
そう考えると、「今までの悩みは誰のもの?」と問いかけてみたくなる自分がいます。
本日のメタファー:イルカショー
「人の気持ちは分からない。そして、自分の気持ちも分からない」
「ダウト」の話は、大嶋信頼先生の『無意識さんの力で無敵に生きる』より
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