「明日はまた明日の風が吹く」とか「ケセラセラ」の話は以前もしていたと思います。
「人間関係の可塑性」と考えた時に、私は一人の人と上手くいかないことがあると「ああ、もうダメだ…すべて終わりだ…」と絶望的な気分になっていましたが、人間関係って一回の失敗で終わったりしないんですよね。
ただ自分の中で「ああ、この人に嫌われたらすべてが終わる…」と思ってしまうのは、自分の中の幻想であって、実際あなたのことを嫌っていないかもしれないし、そんなにダメージを受けていないかもしれない。
だから、人の気持ちをあれこれ詮索して落ち込むより前に、前に進むための方法を自分の中で模索してもいいかもしれない。
完璧主義の人によく起こりやすいのが、一度失敗したら「あーもう全部やる気なくなった!」と、それまでのすべてを放り投げてしまうことだと思います。
これまで根気よく続けてきたことも、相手のためにあれこれ時間を作ってやってきたことも、たった一度の失敗で「全部おじゃん!」となってしまって、がんばる気力も立て直す気力もなくなってしまいます。
だけど、自分の中で絶望的に思っていても、将棋と一緒でもしかしたら一筋の活路がそこにあるのかもしれない。
その活路に気づいていても気づいていなくても「もう、どーでもいいわ!」となってるかもしれませんが、その活路を活かした方がはるかに自分の努力が実を結ぶはずなんです。
そう頭では理解していても、実際に「もう、どーでもいいわ!」という事態に陥ると、どんどん無気力になっていって、寝ることだけが人生に許されたこと、みたいな感じに他に何にもできなくなってしまったりします。
その時の私の対処方法は、もう本当にそのまんまで「何もしない」ということ。
こういう時に無理に何かしようとしても、人には恒常性の力が備わっているから「無理に頑張った自分」と「もう頑張れない自分」とがバランスを取るように乱高下してしまうんですよね。
だから「何もしない」として自分の心のささくれが自然と凪になっていく方を待つ方が、もしかしたら回復するのかもしれない。
そうです、完璧主義さんのもう一つの考えてとして、もしかしたら「あの失敗を挽回しないと!」と思って、巻き返そうと意識的になってがんばりすぎてしまうこと。
(この場合の“がんばりすぎる”というのは、意識的に相手に好かれるように振る舞おうとして、相手の気持ちよりも自分がどう見えるかを大切にしてしまうこと)
きっと、自分が「もう、しんどいな…」と思っている時って、本当にしんどいんだと思います。
だから、無理して自分に「がんばれよ!お前はできるんだから!」という声掛けをするよりは、「あなたは今までとてもよくがんばってきたよね」と、失敗したけどがんばってこれた自分を褒められるようになると、なお良いのかもしれません。
誰かに認めてもらう前に自分で自分を認めようとした時に、そこには無意識が働いて、きっと「あなたはもうがんばる必要がない」ということを教えてくれるのかもしれません。
誰の目もない自由な世界で、あなたがもし一人で好きなことをして過ごすなら、そこに「誰かが喜んでくれるから」とか「あの人のために」というのがないと思うんです。
その時にはじめて「あ、自分はこういうふうに感じてたんだ!」と自分の感覚に気づくことができるかもしれません。
そう、この状況こそが瞑想状態であり、催眠誘導で自分の無意識の中にだいぶしていくあの感覚に近いのかもしれませんね。
「誰かの目」を気にしない方が人生が上手く回るのは、そこに上手く無意識が働いてくれているから。
「あなただけの心地よい」を追求していくことは、きっと「誰かの心地よい」に繋がっているはずだと、私はそう信じているのです。
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大嶋先生の書籍では、新書の『「やる気が出ない」が一瞬で消える方法』がオススメです。
快・不快コードについて解説している本です。
自分の中の「心地良い」が分からない人、自分が何をやりたいのか分からない人はぜひ読んでみてください。
読み終わった頃には、「自分の快を選択する」方法が自然と身について、頭で「あれは間違ってる、これは正しい」というジャッジメントではなく、自分の体や心が喜ぶ選択肢を選べるようになっているはずだと思います。
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