「理想の自分」を探るワークは、私の中でとても楽しい作業です。
それはなぜかと言うと、「理想の自分」になるポテンシャルを自分が持っているから「理想」なのです。
もし、全くその能力を持っていないのであれば、憧れることすらしなかったかもしれない。
こんなことを言っても、「でも、能力が発揮できないから、やっぱり才能がないかも…」と弱気になる自分が顔を出します。
こんな時にも「理想の自分!」と思い出してみます。
「理想の自分」なら、弱音を吐く代わりに笑顔で「こんなもん大したことないっすよ!」と働けるかもしれない。
さあ、「理想の自分」をイメージした時に、どんな自分が出てくるだろうか?
「花屋でぼちぼち働いている笑顔が素敵なお姉さん」が理想の自分だとイメージが出てきました。
その「花屋でぼちぼち働いている笑顔が素敵なお姉さん」が朝起きてまずすることは?と考えてみると、「部屋のカーテンを開けて、薄暗かった部屋に光を入れる」でした。
これが「極端な快」のイメージであって、この「極端な快」があるから逆の「私にそんなことできない!」と思ってしまう「呪いの暗示」が出てきてしまいます。
そして、「極端な快」と「呪いの暗示」の間で固まってしまって思い通りに動けなくなってしまうので、「呪いの暗示」を探っていきます。
この場合の「呪いの暗示」は、「朝か夜かも分からない暗い部屋で、一日中パジャマでゴロゴロしてムダに1日が終わっていく」です。
「あ~」となります。
実家にいる時は、高校生の時から常に寝ている記憶しかありませんでした。
学校から帰ってくるとすぐに寝て、ご飯を食べたらすぐに寝て、でも寝すぎているからか夜は眠れない。
社会人になってからも朝はギリギリまで布団の中で、休日は何十時間と寝倒します。
そんな生活だから、朝起きて部屋の掃除をすることもないし洗濯もできないので、私の部屋の中は永遠に「昨日の続き」状態でした。
つまり、健康な人だったら恐らく寝て起きて朝日を浴びて体内がリセットされるんだろうけれど、私の場合は不規則でだらしがないのでメリハリがないまま1日が始まり、だらだらだらだらとそのまま1日が終わってしまうわけです。
そこで、「理想の自分」のイメージに戻るのですが、「花屋でぼちぼち働いている」という「ぼちぼち」というのがキーワードなのかもしれませんね。
「ぼちぼち」ゆる~りと働くことで、極端にがんばってしまう自分が淡々と無理なく働けるようになるのかもしれない。
あの頃は「私はこんなもんじゃない!」と世の中全員に「自分の能力を認めさせてやる!」と思っていたのですが、何の才能が自分は一番発揮できるのか分かっていませんでした。
とりあえずがむしゃらになっていて「なんとかして有名になってみんなにすごいと言われる職業」というものを目指していたのですが、ゴールが曖昧だったんです。
それというのも、自分の才能を活かす職業に就くことが目的だったのではなく、世の中への復讐がゴールだったからなのです。
だから、自分の体に鞭を打って働くのを「苦痛」だと感じていなかった。
自分の中に世の中への怒りが充満していて、怒りで酔って感覚が麻痺していたのでしょう。
常に怒りで酔っている状態だから、「あの人のことが許せない!」とグルグルグルグル頭の中に人が居座っていて、横になっていても誰かのことを考えているので頭も心も疲れてしまう。
すると体がどんどんボロボロになっていって、「起き上がれない!」となっていたのです。
なので、最近は「なぜかだらだらしてしまうな~」という時は無理にがんばろうとせず、「もしかしたら疲れているのかも?」と思って心ゆくまでだらだらしてみます。
こういう時に少し体を動かすことをすると楽になったりする時もありますが、たいてい自分が意識できないところで何か嫌なことがあって無意識が処理してくれているから無益なことをしてしまっていたりします。
自分の体にもちゃんと理由があるので、無理やり「ほら、がんばれよ!」と尻を叩くのではなく、「自分に優しくする」と思って様子を見てあげると良いのかもしれません。
優しくすることと甘やかすことの違いが分からない方は、こう思うと良いかもしれません。
優しくすることは自分を大切にすること。
甘やかすことは自分を堕落させること。
それでも分からない場合は、自分を大切にするということは自分の心や体の声に耳を傾けてあげること。
自分を堕落させるということは、自分には毒だと思っていることを過剰に摂取して中毒になっていること。
そう思ってみると、自分に優しくすることは自分を甘やかしてダメにしてしまうから、休まずに働かねば!というスパルタ根性が和らいでいくかもしれません。
本日のメタファー:白いティーポット
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