Twitterでつぶやいていたのですが、いつも私は散歩する時に「心よ、何分散歩する?」と聞いてやっています。
心が言ってくる時間は、たとえばその日体調が悪くてそれだけしか歩けない日だったりするので、心が言った分数以上歩こうとして途中でバテてしまって「あ~やっぱり言う通りにしておけば良かった~!」と思うったりするのです。
それで、昨日は仕事が終わってから出かける用事があったりして、散歩しそびれていました。
なので時間が深夜になっていたのですが、心に聞くと「30分!」と言われたので、外に出ます。
歩いている内になんだかテンションが上がってきて体調も良かったので、「心は30分って言ってるけど、1時間ぐらい良いかな~眠くないし」と思って30分以上掛かるコースを歩いていました。
すると、ちょうど歩き始めて30分経った頃に、彼氏から電話が掛かってきたのです…。
最近は滅多に電話を掛けて来なかったのに、なんでこんな時間に!と思って、「電話に出た自分」と「電話に出なかった自分」を頭の中で天秤にかけて考えてみました。
すると、やや「電話に出ない自分」が優勢だったので、とりあえず「後20分経ったら折り返します」とメッセージしたけど、「結構です」みたいな返事が返ってきて「…。」ってなりました。
心って、まれにこうやってビンゴなことをしてくるので、甘く見ちゃいかんなと思います。
まあ、でもその時間いつも寝てるし、どっちみち出てなかったと思います。
で、最近ブログの更新頻度が落ちてることにはちゃんと理由があって、ずっと大嶋本のレビューを書いているのだけれど、全然書き終わらないんです…。
書けば書くほど話が詳しく長くなり過ぎて、「本丸写ししてるんちゃうか!」という感じになってしまっているので、泣く泣くお蔵入りにしました。
それだけ、たくさん大事なところあって、書き漏れるのが勿体ない気がするんですよ。
そういえば先日、クワズイモの種を植えました。
3か月ぐらい前に花が咲いて、その後赤い実が実ったのです。
クワズイモの花言葉は「仲直り」です。
葉っぱがハート型なので、「復縁」という意味もあったと思います。
めちゃくちゃ伸びるんですよ!
うちにあるクワズイモとエバーフレッシュは、ついに私の背丈を超えました。
そこで、私は気づいたのです。
私は元々物を捨てるのがすごく苦手で、ゴミでも捨てられないところがあるのですが、この植物たちがどんどん伸びていっても「剪定するのがもったいない!」と思ってしまうのです。
せっかく新しい葉を出して伸びてくれたのに、それが枯れたとしてもなんとなく枯れてしまったのを認めたくなくて、枝葉を処理できません。
なぜかというと、「枯れたのは私のせい」だと思ってしまうから。
「ちゃんと水やりをできなかったからだ」とか「日光に当てなかったからだ」とか、いろんな理由を作っては自分のせいにして、本来すでに役目を終えているものを手放せません。
そして、枯れた大きな葉をつけたクワズイモを眺めながら、ある日ふと思ったのです。
「物事は盛者必衰であり、永遠なんてものはないんだな」と。
植物が新しく芽吹いて大きく伸びて、そしてやがて枯れていくのは一種の自然のサイクルです。
以前も書いていたかもしれませんが、それと同じように、服は着れば着るほどよれていくし、靴は履けば履くほど泥などで汚れていきます。
だから、汚れるのが嫌で真っ新な靴を履いて外に出ていけないので、いつも外で汚れても良いボロボロの方の靴を選んで出掛けたりしてました。
だけど、成長のサイクルが早いクワズイモを見て、「枯れるのは生命の自然な流れ」と気づくのです。
私のせいだとか何かが原因なのではなく「寿命」っていうものがあって、永遠に真っ新で美しいまま時を越えられないのです。
そう認めた時に「あ、服を捨てよう」と思いました。
なぜか心のどこかでは「私が汚い着方をしたからダメになったんだ…」と思ってなかなか服を捨てられないんだけれど、そりゃあお気に入りで着る頻度が高い服は他の服よりダメになるのが早いでしょ!と思うのです。
上手く伝わってるか分かりませんが、そんな感じで私は物事を「廃れない」と思っているから、廃れた時に「自分のせい」にして自分を責めるネタを作っているのです。
トラウマをほぼ全部取ってきて、最近鏡を見ると以前より頬がたるんできていたり、ついにシミが多くできてきました。
「老い」です。
35歳を過ぎても25歳と間違われていた私だったのですが、ついに年相応に老けてきました。
この「老け」を、人生を歩んできた成長の証として受け入れ認めることで、芽吹いては枯れていくクワズイモの葉のように無常を受け入れ、自分のこだわりも捨てられるかもしれない。
本日のメタファー:赤いポスト
(どこにポストが出てきたのか全く分からない…)
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