最近、『悪童日記』を読み始めました。
この本は、私の尊敬する方が繰り返し読んで音読されていた本で、2年ほど積読していました。
ようやく最近になって読み始めました…とてもとても良いです。
まだ半分ほどなので、どんな結末になるのかはわからないのですが、この本を読んでいて思うのは「本当に悪い子は誰なのか?」です。
痛みに耐えられない子?
労働しない子?
言われたことを守れない子?
そして、自分は誰のために生きるのか?
自分が「愛している人」とは何なのか?
『悪童日記』の中で双子は、出会った人々の「痛み」を自らも経験していくことで、生きるための知恵や強みを増やしていきます。
それを読んで私は「双子で2人だから、挫けずにできているだけでは?」と思ってしまったりする。
2人じゃなくて、1人だったら挫けるんじゃない?
そんな意地悪なことを思ってしまうんです。
さらに嫉妬なのは、この2人がお母さんに愛されていること。
そして、2人が聡明なこと。
痛みに慣れるため、罵倒をなんとも思わなくなるために、2人は自分の精神や身体をあえて痛めつけるのだけれど、それをしっかり自分のものにできているんですよね。
「私に足りないのは、これなのか…」と思ったと同時に、この本は今読むべき本だったのかもしれないとも思ったんです。
そうやって2人は自分を痛めつけて強くしたたかになっていくんだけれど、母の愛(やさしさ)を覚えていると、辛いことに耐えられなくなる。
そう、心身ともに痛めつけられるひどい環境の中で母の愛は、逆に痛みとなってしまったのです。
だから、母の愛を思い出してもなんとも思わないように、その愛の痛みにもとことん向き合って、文字通りに「なんとも思わなくなる」。
大嶋先生のブログを読んでいて、日常生活の中で「痛いな」と感じたことの下には「誰にも理解されない苦痛」があるのかも、ということを思い出します。
嫌だな、不快だな、腹立つな、見たくないな…と思った時、その下にはトラウマが隠れているのかもしれない。
本を読んだり、街を歩いている時に白昼夢にいつの間にか入ってしまっていて、そんな時に「これが私の痛みなのかなあ」なんて思ったりする。
もし、無意識が私に「何も求めていない」ならば、私にとって「愛される」こととは、どういうことなのか?
そんなことを私の無意識に問うてみると、「愛される」ということは“生きる糧(燃料)”にすること、と返ってきました。
え?「愛されるために生きる」って支配なんじゃないの?と思い、さらに無意識に問うていきます。
すると私の無意識は、「愛されるために生きる」は支配かもしれないけれど、「誰かに愛されること」で、自分の中の生きる意志(闘志)を燃やせるなら、辛い状況も乗り越えられるかもしれない、と言うんです。
「意味」とは依存であり、手段である。
生きるために意味を求めるというのは、何かに依存している状態なのかもしれないな、信田さよ子さんの『溺れながら生きる』を思い出しました。
また、過去に開催した哲学対話でも「どうして人は意味づけしたがるんだろう?」という問いも出たことがあります。
「意味」。
生きる意味。
愛される意味。
それを求めて依存してしまうのは、苦しい状況であってもなんとか生き延びたいからなのかもしれない。
しかし、どんな時でも傍に無意識さんがいてくれて、守ってくれている。
それは愛なのか?
そんなことを私の無意識さんに問うてみると、無意識さんは「愛ではなくて、尊敬(リスペクト)である」と言います。
尊敬=生きることへのリスペクト
そして、生きることのリスペクトは「自分ってすげー!」に繋がります。
つまり、“生きる糧(燃料)”=「愛(リスペクト)」ならば、「愛される私」とは、自分が尊敬できる「すげー私!」であり、実際に愛されることと、自分で「すげー!」って思うことは別なのです。
だから、やっぱり「愛されること」の対象は人ではなく、自分の無意識さんなのかもしれない。
私は“誰か”にではなく、自分を、自分の人生を愛して生きたいんだ。
辛い時は誰かに縋っていい。
そこに生きる意味を求めてもいい。
それが生き延びるための燃料になるのならば。
だけど、なぜ「そうまでして生きたいの?」と自分自身に問うた時、それは恐らく私は自分とその人生を愛して生きたいからなんだと。
そう無意識さんは教えてくれたのです。
(ナラティブです)


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