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孤独の中にある美しさ

ひとりごと
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私の家は田舎にあります。
近所のコンビニに行くのに徒歩何十分と掛かるようなところで、夜になると田んぼばかりの村の中は、街頭が侘しくポツポツとあるだけです。

私は不良専門学校生だったので、いつも夜帰るのが遅かった。
奈良県がそうなのかは分かりませんが、お寺や神社が至るところにあり、道の脇のお地蔵さんもたくさんいます。

帰り道には墓地があって、いつもなるべくそちらを見ないように自転車を漕いでいました。

ある時、ひったくりに遭ったことがあります。

バイクがやたら近づいてくるなあと思っていたら、自転車の前カゴから荷物を盗られそうになったので、慌てて荷物を押さえて事なきを得たのですが、今でも後悔しているのが「なぜあの時、通報しなかったのだろう」ということです。

私はトラウマで安静時に緊張が上がるタイプでした。
だから、肝心な場面で怒れなかったり、頭が真っ白になってしまいます。

今の自分なら、もしひったくりにあったら罵声の1つや2つ浴びせて、ナンバーを確認して警察に通報しているでしょう。
だけど、その時は「ああ、無事で良かった」と考えて家まで20分自転車を漕いで帰った翌日に、ふつふつ怒りが湧いてくるのです。

「なんであの時、もっと声を荒げなかったんだろう?」と。

こういうことが、よくありました。

怒らなきゃいけない場面で脱力してしまうから、ヘラヘラ笑って「いいよ~」なんて言って振りまかなくて良い愛想を振りまいていたりします。

それで、後になって「もっとああ言えば良かった!」とか「私にもちゃんとした理由があったのに、これでは誤解される!」と思って悶々としてしまうのが常でした。

咄嗟に怒れないことで心の傷が増えて、やがて「人は私のことを理解しない」「他人は私を傷つける」ということを学んだつもりになっていたのです。

私がFAP療法で一番変わったと思うのは、ここです。

インサイト・カウンセリングでの初回インテークの次のカウンセリング1回目の時、私は担当カウンセラーさんに「怒りは自分を守るもの」と教えてもらいました。

30年間生きてきて、私にとっての初めての言葉でした。
「え…怒りって、自分を守るために必要なんだ」と。

“怒り”というと、私が母から学んだのは「感情的になるとみっともない」ということ。
そして、“怒り”は人を攻撃するものだということ。

だから、“怒り”というのは持ってはいけないと、知らず知らずの内に刷り込まれていたのです。

けれど、私が自分の中にある怒りを無視して生きてきたことで、「いつトイレに行ったら良いか分からない」とか「喉が渇いているのか分からない」とか「お腹が空いていないと思う」など、様々な身体症状の麻痺が起こっていたのです。

FAP療法を行って起こった大きな変化の2つ目が、これです。

それまでは1日1回しかトイレに行かないような生活でしたし、水もほとんど飲みません。
お腹も空いてるかどうか分からないし、何を食べたら良いのかも分かりませんでした。

治療の3回目で、私はカウンセラーさんに「最近すごくお腹が空きます」とか「30分に1回トイレに行ってるのですが、大丈夫ですか?」といったことを相談していました。

意識的に考えた私の答は、「カフェインを摂取しているから、利尿作用でトイレが近くなっている」だったのですが、後から考えたらあの時から私の体質が「普通」になったのです。

今、考えると、1日1回しかトイレに行かずに良くやっていけてたなと思いますし、そもそも喉が渇かないので水分も取っていませんでした。

よくバス休憩の時などで「今の内にトイレに行っとこ!」と言う方がいらっしゃいますが、私はあの気持ちが全く分からなかったのです。
「え?トイレってそんなに行きたくなるもの?」って。

水分も取らないから、バイト中など「水、全然飲まないけど大丈夫?」と逆に心配されるぐらいでした。

今の自分からしたら、全くあり得ないです。

そして、自分の身体感覚の麻痺が取れていくと同時に、“怒り”をその場で表現することが出来るようになったのです。

中学生の頃、私は同級生に「いつもニコニコしていて不気味」ということを言われたことがあります。

専門学校生になっても、所謂健康な人から見たら「いつ見てもニコニコしているね!」というふうに見えていたようで、その言葉の中に「気持ち悪い」というニュアンスが含まれていたと感じていました。

たしかに私は中学生の頃、「笑顔の練習」をしていたので、健康な人たちから見たら「張り付いた不気味な笑顔」に見えていたのかもしれません。
「目が笑ってない」とも言われたことがあります。

だけどその時の私は、自分の何が問題なのか分かっていなかったのです。

「笑って会話を適当に済ましている」とも言われたことがあり、私としては「適当になんて聞いてない!なんて答えたら良いのか分からない!」だけだったのですが、それこそ私が人の顔色ばかり伺って返事をしていたから、相手にとったら的外れな返答になっていたのでしょう。

「人の気持ちは分からない。そして、自分の気持ちすら分からない」

私は人の中に正解があると思っていたので、その人が望むことを言わなきゃいけないと思っていました。
でも、本当は人の中に真実などなかった。

真実というのはその人の中にそれぞれの真実があって、何一つ間違いじゃないし何一つ正解でもない。
ただそこにあるのは、「私は私である」という境界線だけ。

その境界線が曖昧になってしまって「あなたは私」となってしまった時に、間違いが起こってしまいます。

勝手に人の気持ちを想像して行動しても、その人が喜んでくれないというのは、それから数年後に大嶋先生の書籍に出会って知るのです。

「人に喜ばれたら正解」なのかもしれないけれど、「人の喜び」の中に果たして自分の快はあるのだろうか?

私の「快」は私の中にのみ存在していて、それを他人基準で考えてしまった時に軸がズレてしまいます。

ズレた軸は知らぬ間に他人の境界線を侵し、境界線を越えた相手にこちら側も侵略されてしまいます。

人と人が尊敬するための適切な距離というものが存在していて、私はその適切な距離を侵しまくっていたわけです。

その結果、いつも人の気持ちを考えていないと不安になる思考中毒に陥ってしまって、「今ここ」に集中できなくなっていました。

トラウマがあると、「今ここ」に集中するのが大変困難です。

すぐに過去に飛んでいったり、未来に飛んでいったり、思考があっちゃこっちゃ行ってしまうから、読書に集中できないし静かな部屋の中が苦手でした。

そんな過去の自分と今の自分を比べてみた時に、「いつも何かに怒っていたあの時が嘘のようだ」と思えるぐらい穏やかな自分の心を感じられるのです。

少しの変化に敏感に反応して、いつも不快な人のことをグルグル考えては「私が間違っていたのかもしれない…」と怯えていたあの頃。

人の中にある真実にばかり従って生きていて、私は自分の「快・不快」を見失っていたけれど、不安になった時に「快・不快」を思い出してみる。

すると、私の中に美しい選択肢が顔を出して、「あなたは悪くない」と言われているように感じるのです。

無意識の中に「良い/悪い」の判断はありません。
そこにあるのは、ただ「美しさ」を感じられるか感じられないか。

もし、そこに「美しさ」を感じられないのであれば、それはあなたの中に他の人の感覚が混ざり込んでいるからかもしれません。

あなたの無意識は美しい。
あなたの見る世界は、いつでも孤独の美しい光で輝いているのです。

 

本日のメタファー:山道の途中にある優しい顔のお地蔵さん

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