うちではクワズイモを育てていて、今年は花が咲き赤い実が成りました。
それを収穫して2週間前に蒔いた種が、今日見たら発芽していました!
「新陳代謝」を自分で認めていないと、自分の抜け毛に嫌悪感を感じたり、自分が老けていくのが許せないのかもしれません。
私はこの1年間で、急激に老けました。
この前の記事でクワズイモの話を書いていましたが、私は植物の葉っぱが枯れても剪定できないタイプでした。
だって、せっかく大きく立派に育ったのに、それを切って捨ててしまうなんて「勿体ない」から。
だけど、枯れた葉をそのままにしておく方が、本体の元気なクワズイモにとっては迷惑だし成長の阻害になるんです。
それを実感したのが、クワズイモの枯れた葉をきちんと剪定したら、また新しく葉が開いて大きくなっていく様子を何度も確認した時です。
どれだけ立派で大きな葉になったとしても、どれだけ青々とみずみずしい葉を咲かせたとしても、一定期間が経つとやがて枯れるのです。
枯れたらすべてが終わりなのではなく、枯れたらまた別の大きな葉がちゃんと開きます。
その様子を何度も何度も目にして、ようやく私は認めたのです。
「きちんと枯れた箇所を捨てることで、他の元気なところが活き活きして新しく成長していく」と。
植物も人も新陳代謝があって、古くなった細胞を捨てることで、新しい細胞へと生まれ変わります。
ずっと古いままだとしんどいのは、錆びた自転車の車輪のように上手にエネルギーを使えなくなってしまうから。
(ナラティブで書いてます。植物は細胞分裂ですかね?)
だけど私は、物も人も「一度壊れたら終わり」だと思って、壊れたものをなかなか手放せなかったのです。
もちろん、「覆水盆に返らず」という言葉があるように、一度ひび割れたガラスのコップのヒビは、直りません。
しかし、新陳代謝を繰り返せる私たちは、古いものを捨てて新しいものへと変化することが出来るのです。
その、自分の新陳代謝を認めずにいたから、どんどん人が怖くなっていっていました。
なぜなら「他の人も新陳代謝を起こさないから、ゾンビに見える!」ということだったのです。
人を変えることは出来ないかもしれない。
自分の性格もすぐに変えられないかもしれない。
昔読んだマンガで、「人や物事は一生涯同じではいられない。必ず変化する」といったようなことを読みました。
(エントロピー大原則だったと思うのですが、違うかったかなあ…高校生の頃にめちゃくちゃハマったおしゃれな漫画『天然素材でいこう。』)
この自然界においては、ずっと変化しないほうが不自然なんですよね。
それが新陳代謝ではなく、「自分の意見を変える」とか「考えを変える」とか、そういったことも必要以上に一貫性を持たせようとしていたように感じます。
「ずっと最初と同じでないといけない!」という、ある意味強迫的な思考です。
最近、私はDJ社長に注目していますが(もともと好きでしたが)、お金は返さないし言うことはすぐに変わったりします。
だけど、本来は一寸先の未来の自分さえも「分からない」のが無意識の世界なんだと思っています。
だから、言うことは変えて良いし、やることも方向性もその時々で変化して当たり前。
昔の私は決してやり方を変えない頑固なところがあって、自分がいつ何時でも「変わらない」ことでファンの方々がついてきてくださったのもあると思います。
でも、変わっても良いんだって、クワズイモを見ているとそんなことを考えます。
「永遠」も「絶対」も、存在することはないのかもしれない。
そこにあるのは、ただ無意識の「呼吸」とか「細胞分裂」とか、見えないところで私は成長していることを、クワズイモの成長で気づかされるのです。
本日のメタファー:般若の面、赤飯、どっちも赤い
※ちなみに「絶対」などの断言口調で話している時は、意識的になっていると大嶋先生が仰っていました。
ダウト!です。
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